「宇宙消失」について

昨日、「並行宇宙は実在する」を読んだんですけどこの記事凄い面白いです、特に最後の2ページが。マジ読むべき。で、「宇宙消失」はレベル3マルチバース(量子の多重世界)を扱ってるって書いたんですけど、僕は実は「宇宙消失」は最後まで読んでも良く分からない部分があった。そんで、この記事を読んでどこが理解できなかったのか少し整理できたような気がするので、書いておこうと思うんだが、この話題に興味を持っている人が日本に何人居てその人がここに目を通してくれる可能性がどれくらいあるか、ということについて少し考えて吃驚したんだけどそんな事を言い出したら切りが無いのでそう言う人が居るもんだと思っておきます。
あと、また言い訳で申し訳ないんですけど、僕は物理学やら宇宙に関しては印象派をもって任じておりまして*1、要するにちゃんと知ってるわけではなくてニュートンとかの絵を見てふーん宇宙って広いなぁ、マジ広い、すげぇ、とか思ってるレベルです。
ちょーネタバレですけど「宇宙消失」で宇宙が消えてしまったのは、人間から宇宙が見えないようにするため、です。「宇宙消失」に出てくる宇宙は少々特別な構成になっておりまして、基本的には多世界解釈でいろいろな可能性が重なって存在しているんですが、「人間」だけは「観測者」なので「人間」によって観測された場所だけは波動関数が収縮してしまいます。この宇宙のほかの知的生命は可能性が重なった状態で生きているので、人間に観測されると、物凄い大虐殺が起こります。ほとんど無限の可能性が重なった状態から、ただ一つの確定状態に収縮してしまいますので。清涼院流水も目じゃないくらいの殺人なんですけど、この所為で太陽系だけはどっかの宇宙人によって黒い球体で目隠し状態にされ、宇宙のほかの部分を観測してしまう事の無いようにされると。光が届くと観測されてしまうので、空を真っ黒にするわけですよ。だから、この物語が始まった時点で、太陽系だけはコペンハーゲン解釈、それ以外は多世界解釈の世界になってます。
ここまではまぁ、そんな事もあるかもしれないなぁと言う感じですかね。でも多分「観測者」であり得るのは僕だけですけど。
そんな地球においてですね、大変な技術が発明されて、それはどんな技術かというと、任意の状態に世界を収縮できる、というものです。なんでもできます。さいころの目を一億回同じ目で振ったりとか、壁を通り抜けたりとか。
で、僕が釈然としなかったのは、その任意の状態を選択するのは誰でそれはいつ、どうやって行うのか?或は、その任意に選択可能な状態っていうのは多世界解釈の世界において驚異的な幸運を発揮し続ける人とどのように違うのか、っつー事です*2
「並行宇宙は実在する」には、"蛙の視点"と"鳥の視点"という言葉が出てきまして、蛙の視点はアリストテレス的な観測者の視点、鳥の視点つーのはプラトン的な物理法則の視点だそうです。アリストテレスプラトンはどうでも良いんですが、要するに観測者である人間は"蛙の視点"しかもっていませんから、デコヒーレンス*3によって他の可能性の世界は見えないわけで、可能性を選択する、という能力を得るためにはどうしても"鳥の視点"を持つ必要があります。"鳥の視点"から見る世界は唯一の波動関数が存在するのみですから、その関数の任意の状態を選ぶ事はできそうですが、それと同時に実際の観測者である人間でありつづける事はできるのか、というかそれは同じ人間であるといえるのだろうか、って言うところがわからん。"鳥の視点"を持った主人公にしてみれば、自分の数ある可能性を収縮するたびに大虐殺するわけでして。同じような話を確か永井均がどこかに書いてましたが。
でも、こんな矛盾と言うか疑問点について、作者は全部気付いてたと思うんですよ。物語の中にも、「可能性としては存在したけれど、その後のストーリーとは繋がらない状態」についての記述が出てきますから。サイコロで何回も同じ目を出しつづけている途中で、一度だけ違う目を振ってしまうシーンなんですが。そのシーンの主人公は世界が収縮する事によって居なかった事になってしまうのか、或は元々居なかったのか、というかこの状態について僕は記述する事ができないんですけど。また、訳わかんなくなってきた。終わり。

*1:任ずる、の使い方はあっているでしょうか

*2:うーん、でも後者の疑問はこの小説の宇宙では人間は「観測者」で歴史は一通りしかないのだから全然違う、といわれたらそれまでですけど。っていうか、むしろ歴史は一通りしかないのが当然なので僕の考え方が捻じれているでしょうか。なんでこんな風に捻じれるかというと、僕の世界観は多世界解釈なのに小説のストーリーは一つに決まっているという其の事

*3:意味はわかりません