透明な文体について(3)
「新しい徳島の友達の家へ行った」は何通りかの解釈が可能で、「新しい」のは「徳島」なのか「友達」なのか「家」なのか決められません。これと同じことが、それぞれの語や句に起こっているので、文章を読むのはとても大変です。とても大変なのですが、前後の文脈から正解を推測して読む。一つの文章を頭から聴いている(読んでいる)間にも、有り得る修飾関係の候補だけをいくつか頭に残しながらがんがん構文解析をしていく。確率が低いものとして無意識に切り捨てた修飾関係が実は正解だった、というのが下手な文章だそうです。先の例で言うと、「新しい徳島」が正しい読みだった、というのは最悪に下手な文章です(もちろん、その世界には第一徳島市と第二徳島市と第三徳島市があるので間違いではありません)。
人間の頭には文章を解釈するとき専用のメモリ領域が用意されており、おそらく、その大きさは人によって違うので、メモリがいっぱい積んである人は少々の悪文や込み入った構成の文章を目にしても割にすんなり読めるし、メモリが少ない人は他人の文章に対して厳しい態度をとる、汚い構造の文章が嫌い(自分は読みやすい文章を書く)、ということはありそうに思えます。メモリよりも他の部分に多くCPを支払った人が読みやすい文章を書くのとは反対に、無駄にメモリを多く積んだ人間は意味無く複雑な構造の文章を書いたり、読み下しやすさを犠牲にしても、より効率的な文章を書いたり、読んだりするのを好む、ということもありそうに思える。なぜなら、自分の能力のギリギリよりも少し手前な程度で何かをこなす方が緊張感があって楽しい(時もある)からです。そして、透明な文体というのは、頭から読んだときにすんなり解釈できるような構造の文章ではないか、逆に、「文圧が高い」という謎の形容は、文章の構造が多少入り組んだり、行き過ぎて無理のある構造になったりしており、読んでいるだけで脳の一部が活性化するのでテンションがあがりやすく、そこに暴力の描写や反社会的な言葉や普段使わないような言い換えを織り交ぜることで、無理矢理テンションをあげる、アゲアゲな文章の傾向を表現しているのではないか。
ということを今日思ったのですが、僕は何か複雑なようなこと(文章の好み)を少ない数の単純なパラメータ(文章解釈領域の大きさ)で説明できる話が好きすぎる、透明な文体が好きな人は、単に人間性が透明だから透明な文体が好きなのかもしれません。そもそも、頭から読み下しやすい文章を透明な文体という、わけではない、ような気もします。透明な文体、という言葉に対してはっきりした印象を持ちにくいのは、単にそんな形容が使われているのをほとんど目にしたことがないからです。