オリンピックについて

zawazawa

ぼやっとしていると本当にオリンピックが始まってしまうのでそろそろオリンピックに対する態度を決めてしまわないといけません。現在僕はアナーキズムをマイブームとしています。欧州のアナキスト達は混乱を画策しているそうです(google:アナキストが混乱画策か)。しかし無論僕にとっては他人がどうオリンピックと向き合おうと知ったことでは無いので、混乱を画策する必要などありません。僕が僕自身の革命としてオリンピックと向かい合う態度としては徹底した無関心しかないでしょう。これからオリンピックが始まるまでに残されたわずかな期間をオリンピックへの興味を失っていくために利用しなければなりません。そうでなければ、僕は「あなたが日本に関心をもてるのは、スポーツだけですか?」と問われた際、答えるのに幾らか躊躇してしまうことになるでしょう。
しかし、僕は人類全体の向上の証、世界新記録が数多く生まれる場としてのオリンピックに興味を持つ事も許されないでしょうか。一貫した態度を保つためにはこれも許されないと考えるべきです。僕が現在こうして一人間観察者として在るのも偶然に過ぎないからです。勝手に宇宙船地球号の乗組員とみなすな!!という話ではありません。
このように改めて決意を固めるまでも無く僕はてんからあらゆる日本代表戦に対して強い興味を持った経験が無く、同様に夏の甲子園大会で県代表を応援し、或は母校の野球部やその他運動部を応援した経験をもちません。僕がこのような性向を持つに至ったあらゆる要素要素の中に、コントロール可能な社会のシステムが含まれているとして、また、僕は僕自身がそうでないにしろ、他人が日本代表戦に熱狂しているのを見てそれを楽しそうだ、と感じた場合、そのコントロール可能な部分を、より日本代表戦に熱狂する人が増えますように、皆が楽しめますように、という方向へ変わる事を願うべきだろうか、どうなのか、と言う事を最近考えています。
僕は日本代表戦を楽しみたくないと思っているけれども、他の人にとっては日本代表戦に熱中できる方がより多趣味であり一体感も楽しめてお得なのではないか、である以上は、例えば学校などでもより日本代表を応援するように吹き込むべきではあり、僕もそれを期待するのが良いのだろうか。そしてそのような教育が実施されていたら僕も今頃熱狂的な日の丸サポーターとしてアテナにいたのかも知れず、それはとても楽しそうではあります。
しかし現状僕は日本代表戦に熱狂する事についてどちらかというと反感に近いものを持っており、僕がそうなるに至った環境が国として特殊なものであるとか、人為的に歪められたものである、という事が事実だったとしてもそれはそれで仕方ない、というか、僕自身がそれらの事を考慮に入れる必要はないのではないか? それを言い出すと全く切りが無く、とても不自然なことではないか、と思いますが、不自然である、というのはどういう事なのか良く分かりませんが……。嫌なものは嫌、でいいのでは、と思います。そういう嘘がどんどん無くなって後の時代の人がどんどん幸せじゃなくなるならそれはそれで仕方が無く、嘘だと分かっていて嘘を言うのは気持ち悪いので嘘とか無い方がいいし、それで心の風邪をひいてしまう人が増えてしまってもそっちの方が良い、良いっていうかクール。風邪だけに……。あと、時間が経てば慣れるのではないかと思います。これがどう実際の行動に結びつくか、というと全く結びついたりはしないので、何の意味も無い、とか思います。人間が(というか僕が)死んでしまうのは凄く不自然なので早く不老不死を開発して欲しい……。