ディスプレイを用意して読め!!(ディスプレイ無しで読むのは難しいので)

特にPCで書くような文章というのは無限に推敲可能であるから、今あなたの目の前にある文章はこれ以上改良の余地が無い状態でリリースされたと推定して読み進めることが出来る。書く側としては制限なく文章を変更した上で人目に触れさせることができるのは無論利点だが、ある種の制限を読み手に想定させた上でのみ成り立つ面白みがある。たとえば、一度タイプした文字は取り消すことが出来ないという制約が存在した場合。たとえば、一度タイプした文字は取り消すことが出来ないという製薬が存在した場合、そのような薬を製造する方法があったとしても誰も実際には製薬しないだろうから結局世界には何の変化も生まれない、という方向へ話を持っていかなければならないルールがあるとしたら? 俺としてはそのようなルールの存在しない自由な世界に生まれたことを感謝せざるを得ないが、不自由な世界で誤変換からの軌道修正に苦闘するさまを観察するような面白みも確かに存在するのだろうとは想像しうる。
ヒトシの日記を読むとき、人々はそれがヒトシの日記であるということから様々な前提を置く。ヒトシはあまり愚痴を漏らしたりしない陽気なやつだから、愉快な内容であることを期待して読み進める。期待通りの楽しい内容であれば満足するし、ちょっとした悲しみを生むような日常が綴られていれば、若干の驚きと共に悲しみを受け入れることになる。誰もヒトシが嘘をついているとは思わないから、悲しみの発生源となった出来事について検証したりはしない。ヒトシが日常を綴るという事以上に大きな意図をもって更新しているとも考えない。しかし、実際の所、ヒトシは悲しいやつだった。ヒトシの周りでは日々悲しみだけが生まれ落ちており、この世には明けない夜が存在するのだと身に染みて感じいる。愉快な日常として語られたことは全て嘘だったが、それと感じさせない見事な技にはまったく感心させられた。ある日、ヒトシがゲームセンターを訪れると、そこには死の匂いが充満していた。本来はゲーム機のモニターの中で活躍する動物たちが一斉に画面から飛び出し、争いを始めたのだ。実に獰猛であった。可愛いデジタル動物たちが殺しあうさまを見てヒトシは悲しみに包まれた。これ以上、悲しみを一人で抱えることは出来ない、ありのままを日記に書こう。こうして生まれたヒトシの悲しい日記は大きな驚きを持って読者から迎えられることになる。