胃痛について

仕事が嫌なので胃が痛い。心の問題だから心のなかで解決するべきだし、そうすることが出来ると思った。たとえば、土曜日は胃が痛くないという明らかな傾向が存在する。ある24時間が土曜日である、というのは、まったくもって心の問題、言ってみれば共同で維持しているだけの幻想である。旧約聖書の神が1日で世界を作り上げていたら土曜日が存在するか? 毎日が土曜日であると思い込むことで、胃痛を回避できる。正確に言えば、"毎日"が土曜日であると誤認する必要はない。胃が痛いその瞬間だけ、"今"が土曜日であると誤って認識できればいいのだが、そのように便利な能力は備わっていなかった結果として、胃痛は誰にとっても非常に回避困難なものとなった。
不思議なことに、日曜の午後、週末が終わりを迎えようとしている頃、明日が月曜、稼働日である、という明確な認識を持っていない、ふとした瞬間にも、突然、胃痛が発生する。意識される思考の流れとは別のところで、確かに明日は職場に行かなければならない日だと認識し、胃に指令を送った奴が居る。"クルーシオ(苦しめ)"。そこには胃酸などのもっと複雑な複数のプロセスが関わるのかもしれないが、重要なのは胃が痛い、という結果である。痛い、というか、重いような、曖昧な違和を感じる。痛みほど、直接に回避したくなる感覚ではない。もっといえば、それを感じている部位が胃なのかどうかもよくわからない。したがって、これが一体、カラダからのどのようなメッセージなのかは謎のままである。うーん、少し、胃、か、もしくは周辺の臓器が全体に重いような感じがするな……。とは思うが……。
私は今、列車に乗っている。火曜朝、空港発で職場へ向かう混雑した列車。シンガポールの列車は無人運転で車掌も運転手も居ないから、さぞ正確に運行されているのであろうと思うかもしれないが、実際には録音された駅名のアナウンスも、車内の路線図による案内も、実際の現在地と一駅、二駅ずれていることがよくある。窓から見える景色と駅名アナウンスが合っていないような気がして、停車したタイミングでドアから顔を出し、駅名標を確認すると、乗車しようとした中年の中国系らしき男性に強くぶつかってしまった。とても背の低い男性で私の腰くらいまでしかない。いや、そんなわけはない、これは私が巨大になったのでは、とよく下を見て確認すると、私の腹が裂け、光沢をもった胃が露出していた。このままでは下に落ちてしまうと両手で抑えるがとても支えきれる重さではなく、床に跪いてしまう。
というようなことがあれば実際に胃が重いのだな、とわかる。なぜなら、薬品のパッケージなどで胃の形については熟知しているし、手で重さを確認できるからだ。しかし、内部に収容されたカラダの一部が重いという感覚のみ、が実際に存在しうるものであろうか。手や足が重いのは、疲労から手足を普段通りに動かせない状態が、重いものを持った状態に似ていることからそう感じるのだ。しかし、そもそも胃は随意筋で動いているわけではないから、そのような意味で重いわけではない。従って、胃が重いなどということはありえない。なにか、とても重い食べ物を口にした後でなければ(ステーキなど)。