透明(感)、文体?について書こうと思った事について

僕は昨日とある方に「透明な(透明感のある)文体」という表現、について考えた事を日記に書く、と約束したんだけれども努力虚しくそれは果たせなかったので、今からせめてもの言い訳をさせていただこうと思う。昨日は日記を書く余裕がなかったというより、無謀にも自らの手に余る日記に挑んだため、日記の更新を諦めるか、それとも徹夜で日記を書いて会社を休むか、という択一を迫られ、かなり迷った末に会社を選んだのです。今でもこの選択は社会人として間違っていなかったと信じています。
昨日の日記はまず釈明から始まるはずでした。いまから私は真剣に日記を書く、しかしその日記はとても真剣に書いたとは思えないほど論旨が不明確、数行以内で相互に矛盾をきたし、25歳の男子が真面目に書いたとはとても思われないような内容だけれども、それを馬鹿にする奴は許さない。そのような人は必ずや相応の報いを受けるであろう、という釈明から。
そこからやっと本題に入るのですが、本題はこれです。じゃーん。

「文体が透明*1」などと書く人は、何が透明なのか、をちゃんと書いてください……。わたしには全然向こうが透けて見えません……。

僕はこれを読んで、うーん、と一つ唸りました。確かに、透明な文体を透してなにかがより(透明でない文体で書かれた場合に比して)はっきり見えた、掴めたと言う経験をした事がありません(この謂いの裏には勿論「透明な文体」と言ったときに私が確固として抱く一つの具体的な文体、文章の傾向、が在ります。その傾向を明らかにせずに言を進めることはあまり正しい態度とはいえないでしょうがどうせ他にもあれだし日記なので…。)。僕はどちらかというと、うねうねと捻じれた文章の方が好きですし、またそういった文章の方がより多く明確に伝えられるのではないかと思っています。単純に語数の効率から言っても一文により多くの句、語を盛り込んだ方がそうで無い場合、僕の思い浮かべる透明な文体の場合、に比べてより多くの意味を伝達出来るのではないでしょうか。そもそも、透明な文体を透してなにかが見える、というのは、文体に支えられた文章、の向うになにかがある、それを文体が覆い隠している、という発想に基づいているように思われますが、文体が何かを覆っている、というのがなにか空気を読め、とか行間を読め、のようなのと同じ発想ではないか、結局より書かないことによって読む方の負担を大きくする、或は読む方のなにかに依存した書き方ではないか。それよりも文体でもって意味を形作る、という考え方の方が僕には健全に思われます。
しかし、もう一つ僕が思ったことにはうねうねとした文章も細かく分割、余分なものを取り除いていけばいずれ透明な文体になるのであって、それならばその方が冗長に成ったとしても、より良い文章のではないかということです。なにも文章は密度が高い方が良いと決まったものでもないし、読むのにかかる時間だって直接その文章の綜合的な長さのみに拠るのではないのですから。そう考えると無闇に複雑な構造の文章を書く人は読むひとの事を考えていない、という事になります(そうでなければ表現できない、という事も在るとおもいますが)。しかしこの考えは直接僕の嗜好に反する、つまり僕は特に必要が無くてもだらだらと長く行ったり来たりする文章の方が好き、なのであって、それは何故なのか、という話です。つまり読む際により多くの手間、が必要なのになぜそういった文章の方が読んでいて面白いと思うのか。
なぜならそこには手間など存在しないからで、実際自然に文章を読み進めている場合にはいちいち返り読んだりしないでもそのままの形で理解できる(ように思われる)のです。しかし、言葉を扱うというのは習熟を必要とする一種の運動なのであって、無意識に行えるまでに習熟した運動をその限界、あるいはそれに近付いた強度で行う事の楽しさ、というのはスポーツをする楽しさと同種ではないか。そしてまた、野球をする際に実際にはその行為自体には何の意味も無い、球を飛ばしたりる事には何の意味も無い、のと同様に読んでいる文章や書いている日記に何の意味が無くてもそれはそれで楽しいのではないだろうか。これこそ日記の正体だ、日記の正体見つけたり、という気分です。
その後色々ネット上の言葉活動とスポーツを比較する、というのをやります。日記は一人で演技する系のスポーツです。一見無意味にしか思われない議論は対戦するスポーツ。あと色々。
ひとしきりスポーツと比較したあと、学問の内容には全く興味が無いのに院生や研究者に憧れる事について書く。あと、あの人の閾の感想を書く。そして暗い雰囲気で終わる。
とまぁ、大筋でこのような日記を昨日書こうと思ったのですが、果たせず三時頃寝ました。そして今日の朝、昨日は全く気にならなかった一つの誤謬、とその訂正が大きな引っ掛かりとなって寝起きの僕に襲い掛かりました。

註:実際は「透明感のある文体」だったようです。間違って覚えています。

透明感! 昨日は、透明な、と、透明感のある、はほとんど同じ意味だと解釈してぼんやり見過ごしてしまいましたが、冷静に考えるとこの二つは全くの別物です。ある女性が、「透明感のある肌」を持っていた場合、それは彼女の血肉が肌の上から見て取れる、キモイ! という意味ではありません。単に、シミやクスミの少ない白い肌をしている、という意味です。つまり、透明感がある、というのは全然透明ではないのであって、だからこそ「感」などという変なものが付いているわけで、透明感のある文体、というのも同じく見た目にすっきりさらっとしているということを表現したいだけではないのか、ということです。
以上が二回目の日記です。