日記について

日記を書きたい、しかし日記を書くのは面倒……、なぜ、私の日記は日記を書くのが面倒であることについてばかりになってしまったかというと、「1.何か考えている」→「2.日記に書こうと思う」→「3.日記を書くのが面倒」→「4.1.の内容を忘れてしまい、日記を書くのが面倒なことについて日記を書く」という仕組みになっているからです。「1.何か考えている」の「何か」は昨日であれば、「最近は、ゲームを発売と同時にできる限り良い環境でプレイするために生活を組み立てていること(具体的な失敗例:Halo 1 & 2ヒストリーパックとHalo 3、今後の予定:WE2008、もしくはVF5 LA、あるいはGG2O)について」であり、今日であれば、「最近の、コンビニに対する態度について(ジャンプSQが何処にも売ってないことについて)」でした。
しかし、いずれも日記を書き出す前に日記を書くことの面倒さに阻害され、意気を阻喪したのでした。これは真剣に日記の面倒さについて書ききってしまうしか、手はないのではないかと思います。
理想を言えば、頭に思い浮かんだことがそのまま日記になってしまうのが面倒でなくて良いです。これは何度も書いていることだし何度も実践しているので間違いないですが、頭に浮かんだ文章をそのまま記述すると日記にならない。ならないというか、頭に浮かんでいる時点では、それぞれ単独の文ではなくきちんと成立した流れであるように思われるのに、実際に書くとまったく違う。つまり、一つには、頭の中に浮かんでいる文章はそのままとりだせば文章として成立しそうな感じがするのに、実際に文章にするためには無駄だと感じる作業が必要になる(同じことを書いた)。信じられないことかもしれませんが、この段落が始まってからここまで書くのに五分以上かかっています。であるにもかかわらず、ここに書かれていることは五分以上前に完全に考え終わっていて、この五分はそれを再現するためだけに無駄に費やされた五分だという気がして、いらいらする。嘘です。イライラはしませんがそういう風に思えなくもないという気がする。ここは五分前には考えていなかった。
そして、五分前の構想としてはここから以下のように展開したかった。つまり、頭の中 → 日記へ直列化する際に、そのままだと抜け落ちる要素が多すぎるため努力が必要とされるし、その上、相応の時間を費やしてさえ、再現の完成度としてはまったくお話にならないレベルなので許せない。
(これは、私は本当はもっとすごいことを考えているんですよ! という宣言です)
そして、また、私はそのような不便さは、いままでに書かれてきたほとんどの文章というのは、それぞれに、その目的、アジったり、(架空の)状況を伝えたり、というようなもの、に対して合目的的に作用するよう組み立てられてきたわけであって、頭に浮かんだことを(できるだけ簡単に/自分が納得できる程度に)再現できるように使われてきたわけではないので、新しい文章について考える必要がある。そしてまた同時に、その変換にかかる手間こそが日記の楽しさではないか?(なぜなら他に楽しそうな要素がないから)という気持ちもあり、これは変換の手間こそが日記の面倒さである、という最初に考えていたことと一見矛盾しそうに思えるし、では、どちらかの考えを日記に書かないでだんまりを決め込むのが賢いのでは? ここで日記を全消去してもおかしくない、筋を通さなければならないと考えると、大変そうだし、そんな手間までかけさせられる謂れはないので、放置してもなんら恥じることはない、そこでそんな風に思わされることが理不尽だし、許せん、と思う。ここまで、できるだけ忠実に再現しようと思ったが、許せんという気持ちが大きくなるばかりであって、まったく日記本来の楽しさというものではなかった。なぜ、うっかり気を抜くと許せんとかイラつくとかいう表現になってしまうのかわからない。特にそういう気分ではない。まぁでも良い日記書き体験ではなかった。じゃあどんな日記を書くのが楽しいかといわれると返答に困るわけだが……。特に楽しかったことはない、という気がする。読み直して、単純に文章を書くのが下手、通常より多くの努力を必要とされるのが面倒なことの原因では? と思った。嘘。