わたしを含まないアンテナについて

そろそろ徐々に散文から撤退していくべきではないだろうか?(日記界隈の全体的な方向性として)と思っていて、替わりにどこへ向かうとのかといえば、もっと自由な方向へ、ということです。つまり、ここで、わたしが思い浮かべた「散文」の特徴とは、話の筋道が立っていたり、有用なメソッドを提示していたり、というような、読んだ人への影響を念頭において組み立てられたものである、ということなのですが、散文の字面からはまったくそんな感じを受けない、むしろ散る文章ということでどこか儚げな印象すら受けますが、これは、どういうことかというと、韻やその他の制約を気にしないで書いているから散文であるそうです。本当は(散文詩ではない)詩のほうが余程縛られている……。その意味で、今、最も散文的でない文章とは「縦読み」だということになりそうですが、もちろん縦読みなんてまったく書きたくないのであって、私がしたいことというのは、というかしたくないことというのは、具体的には、接続詞をきちんと順接なら順接、逆接なら逆説、でつなげていったり、主語と述語がずれてしまわないように気をつけたり、そういった細々とした日常の作業です。接続詞とかいらないと思うし、できればなくしていきたいけれど、それをなくした場合のしっくりこなさは強迫的で耐えられないので、そこが悩みです。もっと大きなレベルで整合性をなくす、というのは割合簡単にできるし受け入れやすいので、その小さいレベルの強制については本当にそこに存在する制約のように感じられて許せない。というようなことは特に思っていなくて、もっと楽しいことを考えよう、と思います。最近よく想像しているのは「千の風になる」が死を表す隠語として流行したら面白いのではないか? ということです。このアイデアは、歌をうたっている人は別段そのメッセージを発している人として受け入れられるわけではないのでは? 問題を検討しているときに思いつきました。つまり、秋川さんはまだ千の風になったことがないではないか!! というわけです。年齢からいってもまだせいぜい、百やそこらの風でしょう。日本では家族墓が一般的ですから、私の墓、と力強く宣言できるような墓地は確かに存在するのかもしれませんが……。その場合、そこがわたしの墓であるとしても、わたしはまだ死んでいないのですから、わたしがそこにいないのはスピリチュアルな観点からしても疑いようのないところです。しかし、歌詞と歌手の乖離を示す例としてあまり説得力を持たないようなので、まだつかったことはありません。千の風になる、が死を意味する表現として定着したら、生命の危険を感じる恐ろしい目に遭遇したとき、「ほんと、実際、今朝の俺は990くらい風になってたよ!」のように、極めてデジタルにその危険さが表現できます。この表現におかしみが感じられるのは「風になる」が以前はとても軽やかに走ることなんかを表していたのに、今は極めて恐ろしい事態を表現しているからです。ほんとうは、風になんかなりたくない、というのがみなさんの本音ではないでしょうか。