日記の楽しみについて

一時期はどうしても毎日それをしてしまうくらいに日記好き(書くほう)だったから、今でも当時の楽しみを取り戻してみたいとは思う。色々知識だけは身につけているようでも、極めて単純な気づきから楽しみを取り戻せるというようなことが、書名から見て取れた。たとえばとてもゆっくりそれをしてみるとか。そういうこと。日記の楽しさが減少することについては日記寿命三年説などから教えられて承知しているが、問題は、日記を書くことをもっと楽しむ方法があるのに、なぜかそれが実行出来ないことにあります。と、テニスボーイは考えた。みたいに、テニスボーイに全ての責任を押しつけてしまうとか、してしまっても問題はないように思えるけど、それは出来ない。
出来る人もいる。僕のマイミクに、Aさんという男性がいて、Aさんは普段ちゃんと日記を書いているんだけど、時々地方への遠征などをきっかけにしてmixiからいなくなることがあり、その間は別の人、Bさんが日記を書いている。Bさんは女子小学生なので、ひらがなしか使わない。そして、Aさんの動向に異常な関心を寄せているらしく、おもにAさんの言動についての日記を書く。「Aさん、なかなか、かえってきませんね!」など、二人の穏やかな生活が想像出来て実に楽しい内容ですが、実はこのBさん、実在していないのではないか? という疑いがあります。「えっ! それはしつれいなはなしですね!」と書くだけでも相当な心への負荷を感じるので、それを何ヶ月も継続するなんてとても信じられない話ですが、Aさんは難なくやってのける、ということは、それが出来ないのは僕の責任か、せいぜい僕の内部に組み込まれた規約のせいで、それはなんとか出来る種類のものに思われるので、なんとかしたい。「はじめまして、すべてあなたが悪いと思います。言いたくて言えなかった言葉は体のなかで腐っていくものだ」からです。「ところで、Aさんがうそをついているわけではないので、ていせいしてください!」。ですが、僕がこの疑いを捨てきれないのは二人で書いているとしたら単にそれが規約違反に当たるように思われるからです。でもそれは昔のはてなの規約での話かもしれません。
「カギ括弧ですべての文章を括ってしまうのは、とても手軽で、かつ効果の高い方法である気がします。一度実践してみると良いのではないでしょうか。この手法の大きな、欠点といって良ければ欠点、は、実に有名な先駆者がいるために、どうしてもその模倣に見えてしまうことです。だからといって、下手なオリジナリティーを出そうと『』を使うと腑抜け共に命令をしているのか、単に書名なのかがわからなくなってしまいます」

津田
カギ括弧ではなく、対話形式での日記にもチャレンジしたことがあります。このように、全ての文章を対話のようにして日記を書けば、なにも起こらずなにも考えなかった日にもストレス無く日記をかけるのではないだろうか?
ロボ
ZapZapZap!!!
津田
この計画は当初それなりに上手く行くように思われましたが、一週間程継続したところで「津田」以外、全く発話しなくなったため、あえなく中止となりました。一人しか話さないのでは、独り言と変わりないので、それなら日記をかいているほうがいくらかましというものです。そもそも、なにも情報を提供するつもりが無く、対話をしようという姿勢もない人間が、なぜ日記を書くのでしょうか。それは日記が書けることを証明するためです。

当初は、実在しない人間の振りをするなどの手法に対する心理的な障壁を取り除くため、広くそれが一般に行われるようになればいいと連帯を呼びかけるつもりでしたが気が変わりました。日記のフォーマットはどんどん固まってしまった方が良い。そうすると少しの逸脱が大きく見えるのではないか。たとえば、直接の知人以外には全く詳細がわからないなぞめいた怒りの日記を少し我慢して読むと、とんでもない事態が浮かび上がるというような。