ネタにマジレスが素晴らしいことについて

世紀が変わって初の世界的大"ネタにマジレス"騒動、預言者ムハンマドの風刺漫画騒擾が起こっていることでもあるし、ネタにマジレス問題について考えたい。最近だと、HotWiredの「ジョブズとゲイツ、真の「善玉」はどっち?」も凄かった。元の記事は、善玉度を寄付金の額で計ってみるというネタだったと思うけど、そのような見方は間違っているというマジ反論が多くの人からよせられたという話。
そもそも、ネタとは何か。「ネタにマジレス」文脈に絞って考えるなら、ネタとラベリングされた文章は著者の本意とは切り離された、仮想の一時日記人格が書いた文章だと考えられそう。ここで想定される人格は、エントリ内では一貫性を保っているのが望ましい。ただメチャクチャ書いてあるのはネタではない。しかしあくまで仮想人格なので書いた本人としては、そこには応答責任を感じない。極端なのはテンプレ改変で、文章の骨格を他人から拝借して一部だけを入れ替えたものだから、もちろん著者の考えが正確に反映されているわけではない。そこにマジレスを返されても、マジでは応答できない。
ネット上のフレームで最重要視されるのは意見・立場の一貫性なので、最初から他の文章との整合性を放棄したネタ文章はつけいられる隙が一部もない。ネタ文章で繊細な自己を傷つけられた人は泣き寝入りするか、反論を試みるも「ネタにマジレス プゲラ」みたいなことを言われてPCを蹴り飛ばすくらいしかやることが無く本当にひどい。ネタ文章は最悪だ。
勿論、ネタが全て良くないわけではなく、上の定義だと全ての創作文章がネタになってしまうので、小説の台詞でむかついたら誰にも文句が言えない、だから小説はひどいかというとそうではないので難しいわけだが、小説ははっきり創作であるのに対して、ネタにマジレスの場合は往々にしてマジレスされてからネタだったと言い張るわけであり、そういうのがひどい、かっこわるい。自称毒舌さんが私は毒舌なので、というのと同じだし、騒動になってからあれは釣りでした、と言い張る人と同種のかっこ悪さです。ここでは途中からある文章がネタであると言い張る、最初はなんの提示もなかったのにマジレスされてからネタであると言い張ることのかっこ悪さを考えたい。
なぜネタを書くかと言えば、それが面白いからであり、加えてたいていの場合ネタには嫌味や、皮肉のようなものが含まれている。私は誰にも迷惑をかけずにひっそりと生きて死にたいと思っているので嫌味や皮肉は出来るだけ口にしたくないですがそれでも言いたい場合はあり、その時は言いたいキモチを優先することにしているので、言いますが、それでもネタにして口に出した方が良い。ただ嫌味や皮肉を書くと暗い日記になりますが、ネタにすると面白ダイアリーになるからです。しかし勿論、面白ダイアリーを書いた時点ではそれをネタだとは言えない。何故ならネタというのはそれが本気で書かれていると思える時に一番面白いのであって、最初からこれはネタですとか言われてしまうと面白さが半減するからです。
一見すると本気で書かれているかどうか分からない、というのが面白ネタの条件であるとして、そうするとマジレスを返される可能性も高くなる。しかし、自分としては本気で書いたのではないから、真摯に答えることは出来ない、仕方ないのであれはネタでした、というしかない、のかと思いきやもう一つの選択肢がある、つまり、ネタの人格を引き継いでネタを継続して応答すればよいのではないでしょうか。それでも他の日記との整合性を突かれていよいよ苦しい、もうIDを放棄するか全面謝罪&発言撤回するしかない、というところまで追い込まれて初めてネタであることを明らかにする、という。そもそも、ネタから面白さを取り除いたらただの嘘なわけであり、良くないことは間違いないのですが真剣に考えると日記が書けなくなり、心の調子を悪くしそうなので止めます。私はネタなど一度も書いたことが無く常に真剣に書いているので、マジレスをよろしくお願いします。