自動書記について

日記を書くのが面倒くさい、最近は特に面倒くささが増していて日記を書くのに相当な心の勢いが必要になってきているので、なんとか頭で考えたことをそのまま書き付けるだけにしてしまいたいと願っています。これは昔から思っていることで、それこそ暇さえあれば頭の中で考えたことをそのまま記憶(してあとで再生して書き付ける)、ということに挑戦していたんですけど、あれはどう記録しても読めるようなものにならないです。最近わかってきたのは、大体以下のようなパターンです。まず、1フレーズがぼんやりと頭に浮かぶ。時々、これがすごくかっこよく聞こえたり、おもしろい感じがします。そうでなかったらまたぼんやりします。しばらくすると、おや、これは日記に書いたら良いんじゃない? というようなものが思い浮かぶので、その辺について考えようとすると、勝手に前後の文章が出てくる。この時点では接続詞がついていなかったり指示語も超適当なので、それをくっつけたり離したりする。ここで重要なのは、文章をくっつけたり離したり置き換えたりしているだけで、それを論理的に展開しようとしたりは考えていないと言うことです。しばらくすると、あとの文章や関係ないフレーズが思い浮かぶ、以下繰り返し。そうすると僕は何か考えが降臨してくるのを待っているだけで、本当は考えていないんじゃないか。
と言うような感じではないか、と今は思ったのですが、そうではないかも知れない。僕はそういう気がしたからそうしただけかも知れない、というか、今思った、というのは本当は大分前のことでそれから考えが変わったんだけど、それは何となくそういう気がしてきた、というだけで、それに替わる良い案も思い浮かばない、だいたい、二十何年もし続けているのにどうやっているのかわからないことを今更考えてもわかるわけがない、つまりものを考えるということ、ものを考えている意識とはどういうものなのか? というのがわからんなぁ、と言う話が、「進化する自由」の第八章「あなたはカヤの外ですか?」です。
"いや、ちょっとまてよ、そんなはずはない、だって下村はまだあのとき実家にいたはずじゃないか、そうするとあのとき見た影はいったい誰だ?"、と言うような考え方は絶対みんなしていないはずで、透明な文体を目指すんだったらもっとそういう変な整形済みの嘘思考を書くんじゃなくて、思ったままのことをそのまま書いてみろ! という、小学校の先生が作文についてする無茶アドバイスみたいなことを思っていたのですが、やっぱり意識ってのはそんな整合性のとれたものじゃないんだ、と言うことが書いてあって面白いです。意識の自由さ、制御出来なさ、についてはあまり興味がなかったのですが、なるほどなぁ、と思いました。格好いい文章を引用します。「進化する自由」(ISBN:4757160127)P353

ある精神的なコンテンツが意識になるのは、脳の中の特別な場所に入るからじゃないし、特権的な謎の媒体に転写されるからでもない。他の精神的なコンテンツとの間で、行動を仕切る競争に勝ち、長期的な影響力を勝ち取ったからだ---あるいは誤解を招く表現ではあるけれど「記憶に残る」からだ。そして人はしゃべる動物で、自分自身に向かってしゃべるのは最も影響力の大きい活動の一つだから、精神コンテンツが影響力を勝ち得る有効な方法の一つ---唯一じゃない---は制御機構の言語利用部分を掌握することだ。

またグレッグ・イーガンの話ですが、SFマガジン2003/08号の『決断者』がまさにそのまんまな内容だったなぁ、と思って読み直してみたら、【作者より】に、

この物語は、マーヴィン・ミンスキー、ダニエル・C・デネット、他の人々の"百鬼夜行"認識モデルにインスパイアされたものである。

って、書いてありました。ダニエル・C・デネットというのは「進化する自由」の著者です。
追記:なんかわかんないけど、「進化する自由」じゃなくて「自由は進化する」だった……。ひょっとして全く本が読めていないのでは、と言う気分になることがよくありますが、タイトルから読めてないとは……。