10/29(土)

今日、功利主義という言葉の意味を知ったのでそれについて書きます。ネットが使えないので手元の広辞苑から引用します。

功利を道徳の基礎とし、「最大多数の最大幸福」を原理として社会の幸福と個人の幸福との調和を企図した。

「最大多数の最大幸福」!!。この言葉はヤン・ウェンリーが何千年か後に発明するのだと思っていたのですが違うようです。「最大多数の最大幸福」が道徳の基礎であるとして、無断リンク禁止の日記に無断でリンクするのは道徳的に善い行為であるかどうか、について考えてみます。おそらく、その無断リンクによって、無断リンクされた人は不幸になる、それに対して、リンクした人と、そのリンクによって閲覧の機会を得た人、は幸福になっている。この不幸と幸福を比較して、幸福の増加の方が多ければ、そのリンクは道徳的に善い行為であった、となる。のですが、この理屈だと一人ものすごく不幸な人を作って少し幸せな人が沢山生まれるような行為も道徳的に正しいか、もしくはニュートラルである、となってしまいます(なので、閲覧者が多いサイトからは無断リンクしてもいい、ということになる。見てる人が多く、幸福の増加量も多いので)。消極的功利主義というのもあり、こちらは不幸を増やさないことを優先するのだそうです。リンクしないことによって発生する不幸は無い、もしくは、小さい、のに対して、無断リンクすると確実に不幸が発生するので、消極的功利主義者は無断リンク禁止ブログに無断リンクするのは悪い行為である、と判断するのではないか、と思います。
ここで話が終わりなら、それでいいのですが、勿論人間は全ての行為の結果を推測してそれが幸福の総量が増えているかどうかなど判断できないし、していないので、規則を作る段階では功利主義を採用し、行為自体の善悪はその規則に沿っているかどうかで判断する、のだそうです。そうすると、「リンクを禁止してはいけない」という規則がある場合と無い場合を比較して、どちらがより幸福が多い状態であると思われるか、というと、リンク禁止など出来ない方が世界の方が幸福が多いと思われるので、「リンク禁止をしてはいけない」という規則が作られ、個々の事例は規則によって判断されるので、どんな事情があれ、無断リンク禁止は悪い行為である、となる……。
しかし、実際は無断リンク禁止をしてはいけない、などという規則はなく、単に、無断リンク禁止にはなんの強制力もないのにあるように勘違いしている人がいる、いるのでそれをバカにする人がいる、程度の漠然とした問題でしかなく、功利主義とは全然関係ない、のです。
上の考え方では埒があかないようです。そもそも、ローカルなルールの存在を許容しない、インターネットのグローバリズムに問題があるという切り口はどうでしょうか。いきすぎた技術・規約主義が悪しきグローバリズムと結託して、ウェブ上のローカルな文化、習慣の違いを無視して均一化を図っている、というような言い方です。つまり、無断リンクを禁止できない世界とはべつに、無断リンク禁止が習慣として許される世界があっても良いのではないか、というような、主張は可能でしょうか。おそらく、そんな世界を地理的に切り分けることが出来ない以上、それは技術的な手段によってしか実現できない、といわれてしまいますが、その発想がすでに、技術・規約主義に侵されているのである。なぜなら、技術・規約主義もすべての無断リンク禁止を禁じているわけではない。つまり、技術的にリンク不可能な場所に関しては、それをリンク可能にしろ、という主張をしていない。である以上は、無断リンク禁止自体が良くないのではなく、無断が防げない、もしくはほぼ同等の意味を持つ代替手段(リンクではなくただの文字列としてURLを書く、など)があることを理由に、無断リンク禁止が非合理的である、と主張しているに過ぎない、技術的に制限できないことは制限しても意味がない、愚かな行為であり非合理であり、というような主張だとしたら、どういう反論が考えられますか。