こんにちは(4)

一応先の見通しがあってこうして日記を書いているわけですが全然思い通りに進まないので、なにが言いたいか、ということを先に書いておきます。色々考えた結果、どうも趣味には上下は無いと思うことにした(等しく素晴らしい物だよ! あるいは、みんな同じようにしょうもない)のですが、しかし、こっちの方が高級だな、これはドキュンだな、というのは実際に感じる。説明しようと試みれば一応の説明らしき物は出来る場合もあるけれども、最終的には相手との違いを自分と相手の経験の差か、まぁ生まれついた何かかわからないがそういうあたりか、空気(どういう人がそれを好んでいる/嫌っている)とかで説明することになり、それは趣味自体の話ではない、ということでどうこういうことでもないな、となる。最初に話の枠を設定すれば(これはロックとしては云々・技巧で言えば云々)、共通の認識で話し合うことが出来る分野もあるだろうけどそういう枠自体にあまり興味が無く共有したいとも思わないので、なにか趣味について語る場合は好き嫌いだけで(自分について少しでも知識がある人に、自分はこう感じたという留保付きで)説明するくらいが精一杯か。以上を要約すると教養がないので物について語れない、ということです。
しかし、他人が好きな物の体系と自分が好きな物の体系を同じように扱うことは全く不可能なのであって、その辺をどう折り合い付けるか、どう付けているのか、が最初に考えていたことでその部分は一ヶ月くらい前に日記として書いたけれど唐突な感じがしたので、そのままになっており、明日はその日記を書く。日記の予告だ……。
(ところで、話は変わりますが、そもそも、インターネット上で(特に断っていないですが常にインターネット上のことについて書いています)特定の他人に対して物を言うとはどういう事か。についても考えたいです。接触から逃れるすべの無い相手に対しては「それが不快である」というだけの理由で、それを非難するか、或いは、なにか他の行動でもってそれを止めさせようとしても良い、動機として許容範囲内、と思えるけれども、現実には今そういう継続して存続する不可避の関係が成立する場所というのはそれほど多くない。(一時的なものならば結構ある。電車内でのマナーなど。まぁでもそういう事(他人のマナー)はほとんど気にならない)。のですが、もちろん、不可避の関係でなくても、不快な事というのはある。日記を見ていて、それは間違いだ、とか、この知ったかぶり野郎、と思ったり言いたくなる機会は多い。そうだな、たとえば、○○を本当に楽しむなら、××は外せない、最近の○○は××を知らないのに語る。のが許せない。その他色々。素養なり訓練なりでより楽しめるようになったと思える分野も確かにあるけれども、それは全然"本当に楽しんで"いるわけではなく、趣味/芸術が素晴らしいのはそれが美しい/楽しい/素晴らしいと感じられるからであって、逆ではない。予想を裏切られる快感に出会うためには予想できるくらいの繰返しに付き合わなければいけないけれど、それを経た上で予想を裏切られる快感に出会えたとしてそれがより本物であるわけではない。素晴らしい物を継続して作り出すためには、仕組みを把握する必要があり、仕組みを把握した人は把握してしまった物を純粋に楽しむことが出来ないため、より複雑な物を愛する。仕組みを把握していない人も、自分が素晴らしいと思う物を作り出した人と同じになりたいため、より複雑な物を愛する。或いは必要ないのに努力する。最初の、比較的単純な構造を持つ物を楽しめなくなったのは純粋に損失でしかなく、楽しみ享受戦略的には単に敗北であるわけですよ! そして、仕組みを把握した物をそれでもそのまま楽しむという戦略と技術を身につけた人たちも存在し、1983年、中森明夫さんによって名付けられました。そもそも今、私でしかありえない時点で本当なんてのはわからないのであり、そんなことを言うならあらゆる時代の空気を味わえる装置でも開発してみろということです。粗忽でくだらない恫喝と称え合い(か、想像上のたたえあいとしての一方的な賞賛と同意)を繰り返して権威大好きぶりを披露する暇があるんなら一人でチラシの裏に総括してろ。バッカじゃないの!! 興奮しすぎました。というようなことをよく思いますが、つまり、それを相手に伝える必要はない。読まなければ良いだけだから。したがって、それに対する不快感をベースに行動を起こすことは、強制された何かに対する正当防衛というよりは、攻撃の色を帯びます。実際には存在することを知っただけで不快なものの考え方、糞ッたれな傲慢(これを読まなければ猿である、等)も存在するのだけれども、それを不快なものだと感じる原因(といえるものがあればそれ)の半分はこちら側にもあると考えるほうが謙虚であるようには思えるから、その糞ッたれな傲慢があからさまに誤りやゆがんだ認知を含んでいてさえ(本人にとってはそうでないのだろうし)、指摘することを合理的な選択と考えるのは難しいです。この場合、唯一許容できる動機は、「考えの違う相手との対話から何かを得る」であって、「相手の誤りを正す」というのは動機になりえない。なぜなら、同じ誤りを犯している全ての人間を検索して指摘して回るのか、といわれたらそんなことはしないだろうからです。(道端にゴミを捨てている人間に注意すること、との違いはどうか)。そして、僕は頭の固い人間なのでまったく誤っているとしか思えない考え方をしている人間と話し合いをしてなにかを得ることが出来るとは思えないので、そういう事はしない(出来ない)。これについてはまたそのうち考える)
(あと、「好き嫌い以上のこと」というのはどういう意味なのかについて考える。僕はこの言い方が昔から嫌いです。好き嫌いより上には何があるのか。善い悪い?正しい/誤り。いろいろなものの判断の最後に好き嫌いが来るのかどうかについて)
で、結局何が実践的に重要かというと、自分と他人の価値を同列に処理するというのは到底不可能でありやはりだめなものはだめに見えるし、反吐が出るほど嫌いなものは嫌いであり、かっこいいものはかっこいい。しかしそれをだめだといえるのは自分の中だけだなぁ、ということとどう折り合うか(主に自分が対人関係で失敗しないために)ということであり明日からそういう日記を書く。