ポケットについて

僕は基本的に手ぶら(手ブラではない(核爆))で職場に通っているのですが、ときどき不思議に思われるのが、どこに財布や携帯電話やその他の必需品を入れているのか、ということです。もちろん、ポケットに入れています。右手前のポケットにハンカチ、右後ろに財布、左後ろに携帯電話、左手前に入館証、胸ポケットにMP3プレイヤー。左手にペットボトルを持っていることもあるし、本当に手ぶらである場合もあります。不思議に思われている、というのは僕の推測で、実際それについて問い質された(「今いったいどこから携帯電話が出てきたの!? ほんとうに不思議!」)ことがあるわけではないし、そもそも僕の存在が誰にも気付かれていないという可能性もありますが、手ぶらであることに不思議があるとしたらそれは必需品の量、体積とポケットの容量、容積の関係にある不思議です。ポケットには容量があって、文章を読むときのスタックにも容量があるのではないか?
好きな文章と嫌いな文章というのがあって、内容を切り離してでも好きだったり嫌いだったりし得る。内容と切り離しても、というのは、例えば、主要な単語を意味が通じるように別のセットに全て置き換えてしまったとしても、これは好きな文章だな、と言えるというような意味です。普段からそんなことをしているわけではないのでこれは完全にイメージの話です。イメージで話してしまいすいません……。
そうしたときに、その文章が好きであることのもとにあるものはなんなのか、ということを時々考えるのですが、最近有力なのが、文章を読むとき記憶にかかる負荷ではないか、という(僕が考えた)説です。それが一冊の本であれば、文脈やらなんやらがあるのでしょうが、ここで言っているのは、もっと短期的な、字句解析とか構文解析レベルでかかる負荷、係り受けとか、指示代名詞が実際にどれをさしているのか、などの問題を無意識に処理する部分にかかる負荷、の事です。そうした処理を普段自分で意識することは出来ないですが、処理そのものは確実にされているし、その処理能力には個人差があるはずで、適切に感じられる負荷も違うはず。となると、その適切な負荷の違いというのが個人間の文章の好き嫌いに少なからず反映されるのではないだろうか。Yahoo! APIとかで文章を読んだときにかかる負荷を数値化してくれたら、自分好みの文章が簡単に探せるのでは? また、その負荷が極端に標準から外れるような文章は、商業ベースに乗れなかったはずで、インターネットで新しく読める種類の文章といえるのだから、文章としておかしな部分はないけれど無駄に負荷が高く、かつ内容はまったくない、負荷を全くかけない文章に全て翻訳可能、というようなものを目指していたのがテキストサイトではないのかな? と思っていますが全くリアルタイムでは接していなかったので全然わかりません……。