右の頬を罵倒されたら、左の頬を差し出す(T)

今日は議論について書きたい。私は罵倒については詳しい方だし豊富に体験しているけれど、議論については詳しくない。だって、あの子あたしに全然そういうの教えてくれないんだもの! 今のはテクストによる矢島 舞美さんのものまね(ハロプロやねん '05/10/14放送分)です。
議論自体はしたことがないので好きも嫌いもないですが、なにかのもめ事のたびに引き合いに出される理想の議論的な存在については非常に憎らしく思っています、「おまえ等は議論を勝ち負けだと思ってるがそうではない、俺が本当の議論を教えてやる!」的なあれだ、かはっ、勝ち負けじゃなかったらなんやねん、議論ってそんなにええもんなんか、と思います。私が理想とする対話は、あるテーマについてそれぞれが独り言のように書く、影響されているかも知れないけれどそれを明言する必要はない、しない、対立する意見についても、具体的に引用するのではなく、仮想の一般論としてそれに対応すればよいのではないか、それで不都合無いのでは? という対話です。ただ、この直観には私の引きこもりがちな性向が深く影響している可能性があるので考える必要がありそうです。
私は、議論とは特定の話者間で行われる対話、応答だと思っていて*1、その点が私の理想の対話とは食い違うわけです。特定の人間によって行われること自体は特に問題ないとしても、途中で議論から抜けることが出来ない、対話を停止することが何か意味を持つように解釈されるのが嫌だし、応答の停止を避けるために話の筋道がずれていくのが嫌だ。私は自分の言いたいことだけを言いたいし、言いたくないことを他人に引き出されたくないし、なにかの結果が出るまで話し合おうとおもっておらず、世の中の大抵の問題はそれに関わる人たちが考える価値の軽重によって決まるのだから、特定個人間の応答にそれほど意味があるとは思えない。議論するなら勝つつもりで、勝って周りの価値基準を無理矢理自分に引きつけるつもりでやらないと。勝ち負けでなしに、特定個人間の応答に意味があるとしたらそれはなんなのか。他の者が及びもつかないような達人間の会話であればそういう意味があるのかも知れない。そうじゃなければ、多者間での応答責任のない対話をすればいい。そうすると、無責任な、矛盾を抱えた発言が幅をきかすかも知れない、というのは確かにそうだけど、その結果、多くの類型的に無責任で矛盾を抱えた発言がされがちであるという事実を把握できれば、それは議論によって一個人の発言が無責任で矛盾を抱えているものだということを明らかにするよりもずっと意味があることで、良かったなぁ、と言うことになる。これがメタブロガーのやり口だ。そして、多者間でなされる互いを応答相手として指示しない対話を対話として成立させる文脈生成装置がはてなブックマークに代表されるソーシャルブックマークなのだから、今後ますますアマチュアプロレス的な議論は減ってしまうのかも知れない。もっと勝ちにこだわって議論すればいいと思う。議論は勝敗にこだわってするべきで、そうじゃなければやんなければいいと思う。というテーマで議論しましょう。

実践(1)

よし、議論するぞ!! この日記は主に見栄のためにブログモードを採用しており、コメントを見るのに一手間かかるので、コメントを全文引用、というか数cmの移動ですが全文転載させていただきます。

しかし二人で本当のことを見つけるために話し合う、という議論の類型もあるわけで、それは自分だけで考えていてはどちらも見つけられないこともあるのだし、その場合、単に二人が議論の形式を取らずに互いの独白を聞くというだけでは、やはり自分の考えが相手の考えに影響を受けることにも限界があるのではないかと思うわけで、それはなぜかというと、相手の独白を聞いて自分の考えを変えるのと、相手に問われて自分の考えが変わるのでは、やはり前者にどうしても意識的・無意識的な「てかげん」というものがあるわけで、だからこの手の議論は匿名でやってもいいし、ハンドルが一貫している必要もないわけで、途中で抜けてもいいわけで、匿名というよりも無名と無名の間の議論、ハンドルに意見の一貫性が従属するのではなく、同じ人がこちらの意見で発言するときはこちらのハンドルで、というふうにいてさえいい、という、そういう意味での、「私の意見」などというものを前提にしない「複数で考えるための」議論というのは、それなりに普通にある話じゃないかともおもわれるのです。

こう、結構長いコメントでありながら段落わけがされておらず反応しにくい!! お里が知れます(人格攻撃)。
私の都合でぶつ切りにさせていただくと、大きく二つ意見の相違があるように見えたので一つずつ。

  1. outisさん / 独白の応酬ではあり得ない良い厳密さが議論にはある、ケースがある < > 勝ち負けが重要でないなら独白の応酬としてやれ / 私
  2. outisさん / 「私の意見」を前提としない議論があり得る == 勝ち負けが重要でない議論がある < > 議論をするなら勝ち負けを重視しろ / 私

(1)についても(2)についても、根本では同じ点から相違が発生していて、それはどこかというと、私が意見の対立や議論があった場合になにかを"言う・書く"ことは政治的? に、自分の権利や利便を拡大しようとしてすることであり、かつ最終的には個々人の利便を総合して何かが決定されるべきで、それだけでしかない、と考えているのに対して、outisさんはたとえばなにか本当のことをみつけるためになされる議論がある、他人から受けるべき、受けた方がよい影響がある、と考えている点ではないか、と思うわけです。極端な事を言えば私は議論する際に他人から影響を受けた方がよい、とは思っておらず、(影響を受けたと思われた方が公正に見えるから周りから支持されるために、或いは影響を受けても自分の根本的な方向性への影響がないならその限りでは影響を受けるだろうけど)基本的にはただただ自分の意見を通す、目的を達成するために発言する、と言うことです。で、outisさんの言われている議論は、その議論の結果が私に及ぼす影響よりも、"本当のこと"を見つけ出すことの方が価値が高いと言う種類の議論なのだから、そういう種類の議論においてはたしかに勝ち負けが重要でない、意見の相違があれば独白を交わすよりも目的("本当のこと"の発見)をするために議論した方が良い、と言うことはあり得ると思います。負けた……。
(2)も同じで、僕は何かの(価値的な問題についての)意見を通すための議論しか想定していなかったので、たとえば二つの意見を使い分けることがあったとしてもそれは最終的にどちらかの意見を通すためのものでしかありえないわけです、そして大半の議論はそういうものだと思っている、が、しかしoutisさんはそうではない種類の議論が普通にある、存在している、と言っている。"無い" 対 "在る"、の議論は基本的に在る方が勝つことに決まっているので、まぁ、あるといわれればあるのかなぁ、と言うことになるわけですが、ここはまだ議論の余地がある。本当にそういう種類の議論が普通に存在しているかどうか、について。
議論には二種類在ると言うことで、しかし、それでも、勝ち負けは重要で、厳しさのためには勝ちへの拘りが必要で、"ゲームは楽しむためにやるものだが、楽しむためには勝つ必要がある、少なくとも勝ちを目指す態度が必要とされる"のような種類の問題ではないか。ないか、といか、そのような態度が必要とされる"議論"と、勝ち負けとは切り離されるけれどもモチベーションも低下する"独白の応酬"とどちらが良いか、と言うような話でもある。

*1:この定義、というか区分自体がおかしいかも知れないのでそこは差っ引いてください