議論における卑怯さが成立するための条件について

議論における卑怯さが成立するためには、判定員が(そのこれこれこの手法は卑怯だ、といっている私より)バカである、道徳に鈍感である、という前提が必要なのではないか、つまり、「議論におけるこれこれこのような行為は卑怯である」と言う人は、「民衆は愚かである/道徳にあまり敏感でない」、と言っているのに等しいのかどうかについて。
簡単に説明します。つまり、卑怯な行為をする人は何かを勝ち取っている、しかしながら、そのために使った手法が道徳に反している。これを議論に当てはめると、彼は周囲を納得させることに成功している、しかしながら彼は道徳に反することをしている、道徳に反することをしているのにもかかわらず、彼が周囲に対してより多い説得力を持てたのは何故?? みたいな疑問です。この理由を説明する際に、周りの人間は、彼が道徳に反していることを見抜けなかったからだ、(しかし、私には彼の非道徳な行為が手に取るように分かる)、以外の説明がありえるかどうかについて。もし、議論に卑怯なやり方がある、という人、がそういう意味のことを言っているのであれば勝手に普通の人が気付かないような道徳を設定して悦に入っていると言うことでありむかつくし感情的には許し難いのでなんらかのアクションをとることも辞さないつもりです。(≒ 議論が、どちらの主張がより道徳的かを競う競技だとしたら、卑怯な(道徳的でない)方が勝つ、有利になるというのはあり得ないのではないか? なお、非道徳的であり負ける、というのは単に目的を達成できない間違ったことをしているだけで、卑怯ではない)
ここまでの話のどこがどうおかしいか。というと、議論は、一般に問題をバラバラに分解していって、一番小さいレベルでどのようにか異なっている彼我の価値基準を見つけ出すための作業である、という風に考えられていて、上手く行ったら両方が勝つはずである、ということではないか。卑怯である、ということがありえるとすれば、その人は勝っていなければならない、しかも相手は負けていなければならない、ということはつまり、どういうことかというと、その問題の根本にはまともな価値同士の対立がなかった、問題が存在しなかった、というようなこと、ではないか、というようなはなし、は凄く狭い、ある種の人がどうすべきか、というような分野の
と、とりあえず考えるとします。主張の差が、それ以上分解できない価値基準の差で綺麗に説明できる場合、それは引き分けです。彼らは相手とは違うものを重視しているので、双方が完全に納得できる解決策は存在せず、別の基準で(する必要があれば)何かを決定しなければなりません。相手が、自分の現在居る立場、或いは共感する立場、などに有利に働くよう不当に事実を歪めていたり、ルなんとか男に囚われて意味不明な主張をしている、彼らは自分と相手の立場を入れ替えて考えることが出来ないような主張をしている、などの証明に成功した場合は得点 + 2、相手が単純な事実誤認や予測の立て間違いを侵していることを証明した場合は + 1。10点入れたら勝ち。これは言うまでもなく良い議論の仕方、生産性の高い議論、スゴい会議、について書いているのではなく、私から見た議論と称されているものがそのようなルールに基づいて行われているように見える、という話であり、かつ、「べき論」(なになにの人はなになにすべき)の周辺で起こる騒動に最もよく適合するよう調整されており、かつインターネット専用です。得点は各自が勝手に加点するので、双方が同時に勝ったり、負けたり、ある種の人は絶対に議論で(主観的には)負けることがなかったりします。私が何の説明もなく勝ったとか負けたとか言っている場合は、
書き直そうと思ったけど、眠いのでこのままで……。