ブロガー病について

最近話題の病であるブロガー病について書きたい。ブロガー病は今年に入ってから存在が認識されるようになった新しい病で、症状としては、エントリとしての体裁を整えるためによく知らないことを分析、論じてしまう、いきなり天下国家を語ってしまう、など。本人には病識が無いケースが多い。日記界を代表する病がローテンションなダウナー系であったことを考えるとその勢いが際立つ、新進のアッパー系病(やまい)です。
しかしこれがブロガー特有の病かというとそうではなく、実際にブロガー病の症例であるとしてレッテルを貼られた文章をよく読むとうちの親が言いそうな内容であった。ニートは勤労の義務を果たしていない非国民だ。とか親に言われても、ニートって言うな! と速攻でぶちきれたりしないのです。私がニートになり、それを親の立場から叱られたら一応聴きますが、余所様の家庭の事なんてほっとけや!! とは思うけど口には出さないで流します。よく知らないことについてなにか意見をもっていたり、立場をはっきりさせていなければならない、と思い込んで訳の分からないことを言うのはブロガーの専売特許ではない、ではなにがわるいんだと思う? 私は絶対民主主義のせいだと思う。いきなり天下国家を論じます。
何度も引用して悪いですが、『ウンコな議論』(ISBN:4480842705)。P51

ウンコ議論や、屁理屈は、知りもしないことについて発言せざるを得ぬ状況に置かれたときには避けがたいものである。したがってそれらの生産は、何かの話題について語る義務や機会が、その話題に関連した事実についての知識を上回る時に喚起されるのである。この乖離は公的な場面ではありがちで、そうした場面において人はしばしば---自分自身の性向や他人の要求によって---自分がそこそこ無知であるような事物について、あれこれ語るように求められる。これときわめて密接に関連した話ではあるが、民主主義における市民はどんなことについても---少なくとも自国の運営に関するたいがいのことについて---見解を有する責任があるという広範な決めつけも、ウンコ議論生産の大きな要因である。

上の引用箇所は七十年代に書かれたものです。なぜブロガーは求められてもいないのに、社会的な問題や、事件事故に対する見解を自分の立場や視点を切り離して上から鳥瞰して言及するのか。メディアで語られるとき常にその形態をとるからそれを模倣しているのかな、と思っていましたが、そうではなく日本は民主主義国家であり、国民のひとりひとりが主役だから!! 国内で起こる全ての出来事について責任を感じ、何らかの見解を持ちそれを発表しなければならない、それも国目線で、国民主権だから。ああいう書き方をするのです。民主主義だから。つまり、ブロガー病は良き主権者であろうとする限り逃れられない病であるわけです。
私は一度も投票をしたことがないのであり、その理由は色々ありますが(主に面倒なのが理由ですが)、一つにはなにも効果を予測したり判断したり出来ないような事柄(投票結果とその結果の国政)についてなぜかほぼ二択で判断を下さねばならない、しかもその二択を放棄すると道徳的に善くない人間であるかのような言われ方をする、のに腹が立つので絶対投票はしない、と母国に誓ったのですが、なぜこんなことを書くかというと投票をする際にはそれぞれの人が国政についてブロガー病的な判断を常に強いられている、ということです。どちらの政党に投票すればいいのか、それに正当な理由も添えて、というのはどう考えても不可能な命題な気がするのですが、システム的にそういうことになっており民主主義国家に生まれたからには、延々続く無限択一攻撃(ハメ)に耐えねばならず大変です。
その上、ブロゴスフィアを構成するマルチチュードの一部としても活動せねばならないので生半可な教育改革なんかでは全然足りない。絶対的に差異化された集合、欲望を表現し、世界を変えようとする装置を体現するものとしての責務に耐えうる人間力をつける教育を目指さないと。