右の頬を罵倒されたら、左の頬を差し出す(O)

あるものを美しいと感じるようになりたい、とは思えるけど、ある行為が道徳的に正しいと感じるようになりたい、とは思えない、事について考えようと思っていたのですが、まずこのことが他の人にとってもそうであるかどうかが分からない。分からないですがまぁ他の人のことは大抵どうでも良いのであって、私にとってどうか、という話だ。ちなみにここで言っている道徳というのは、ある行為をしても心が痛まない、良心道徳についてです。私がこのことについて強く意識するのは、美についてはステータス(趣味の良さ誇示)としての側面に囚われすぎで美の他の側面についてあまり考えることがない、道徳については内部にあって割とどうしようもない感じだが自分と切り離しては考えられないため仕方がない(美に対する感覚は容易に切り離せる、今と正反対の美意識を持つ人間になったとしても同じ人間として存在できる感じがする)、という、私の感覚の問題だと思います。だから、自分の美感覚について強い意識がある人は今の自分から見て良くない趣味を持っている人間は自分として想像できない、ということもありえる、のではないか。つまり私にとっては何が美しいかは比較的どうでも良く、美しいものが美しいと感じられるのは素晴らしいですが、それが実際なにに対して抱く感情であっても特に問題ない、と思っているのに対して何が正しいかはとても重要なので、今正しいと思っていると思っていることが正しいと思えなくなるような状態には絶対なりたくない、ということです。
「ウンコな議論」というひどいタイトルの本(ISBN:4480842705)は半分くらいが訳者解説なのですが、その解説にこう書かれていた。著者の普段の議論?について解説する部分です。P73

だが、フランクファートに言わせれば、人間にとって重要なのは、その次の段階なのだ。人はどんな欲望を持ちたいかという欲望を持つ。人間は、人を殺したり物を盗んだりすることもある。だが、人を殺したい、盗みたいと思ってしまう自分を恥じたりする。それが人間の特色であり、その欲望についての欲望または意志こそが、人のアイデンティティ---その人が何者であるか---を規定する、と彼は述べる。

「欲望を欲望する」とはこのことであったか!! と思い、インターネットで検索するとそれは全然別の人が言った別のことでした。正確に言うと「他者の欲望を欲望する」であり、「隣の芝生は青い」的な意味だったのです! それがなぜそんなに重要なことなのか調べようとも思いましたが、今の本題とは関係ないし、深入りすると象徴界と言う謎の世界へ飛ばされそうだったので止めました。
欲望についての欲望、は言いにくいのでブロガーらしくメタ欲望と呼びたい。さっきの引用の後。

欲望についての欲望だから、人によってはメタ欲望とでも呼びたくなるかもしれない。

何か、メタ欲望と呼んではいけない、という含みがありそうな書き方ですがなぜなのかはよく分かりません。たぶん、メタという接頭辞が流行りすぎだからだと思います。