右の頬を罵倒されたら、左の頬を差し出す(Y)

嫌悪感をベースにした単純な罵倒にはあまり奥深いところが無く興味が湧かないし、ブックマークコメントも100文字に増えたからもっと技巧に富んだ罵倒が主流になるのだろうと思いますが、「死ねばいいのに」は言葉の暴力だ、止めよう派、と私の意見の対立(誰とも対話していないので、私の頭の中で行われた仮想の対立です)には興味深い点があったのでそこだけ書いておきます。私は嫌いなものは嫌いである、と言いたいので「死ねばいいのに」と自由に言いたい、と思う。ので色々書いているわけですが、これは「無断リンク禁止は良くない/してはいけない派」の主張とよく似ている。二大スターの競演だ。
無断リンクを禁止している人は、無断リンクされたくないから無断リンクを禁止している、けど、リンクは自由であるべきだから無断リンクを禁止するべきではない(出来ない)。無断死ねばいいのにを禁止している人は、死ねばいいのにと言われたくないから無断死ねばいいのにを禁止している、けど、嫌悪感の表明は自由であるべきだから死ねばいいのにを禁止するべきではない。死ねばいいのに、が暴力なら、無断リンクだって暴力となりうる場合があるだろう、と僕は思うので、頑張ればおなじ問題だと見れなくもない。私は出来るだけ一貫した姿勢をもっていたいと思っているのでチェックの必要がありそうです。無断リンクに関しては次のように思っています。「無断リンクは自由である、無断リンクの禁止も自由である」。無断リンクを禁止したところで実際には幾らでも出来るのでがんがんすればいいけど、禁止していることあえてをする、禁止している人の感情を軽視している、という風に判断される、だろう、それが抑止にならないならすればいいのではないか、と思います。死ねばいいのに、に関してもおなじ態度を取れば一貫していると言えそうです。「無断死ねばいいのには自由である、無断死ねばいいのにの禁止も自由である」。無断死ねばいいのにを禁止したところで実際には幾らでも出来るのでがんがんすればいいけど、禁止していることをあえてする、禁止している人の感情を軽視している、という風に判断される、だろう、それが抑止にならないならすればいいのではないか。なるほど。僕が「死ねばいいのに」と書くとしたら相手の感情を軽視しているどころか、大いに害してやろうと重要視しているはずなので、問題なさそうです。死ねばいいのに、が誹謗・中傷にあたるのかどうか知らないですが、あたるのであれば「私はこのエントリを書いた人が大嫌いです」とでも書きます。
しかし、無断リンク禁止は嘲笑し、死ねばいいのに、はモラルに反するから駄目、という姿勢はとりえるだろう、と思うし全員がそうなったら一番幸せぇー、なのかもしれませんが、いや、無断リンクで幸せがどうこう言ってる時点でおかしい、という感じはしますが、手前等で勝手に決めた基準でもってリテラシ力を測定し、外れた人は厨房として疎外するような糞ったれな連中には吐き気がします。嘘です。そんな人はいません。このサイトは死ねばいいのにフリーなのでご自由にどうぞ。逆に許可を求められる方がショックだ。