右の頬を罵倒されたら、左の頬を差し出す(S)

実践(2)

これは僕のことではないかと思うので、認識が食い違っている点をいくつか。ってか、僕が対象かどうか(一応)分からないので、僕が言える立場かっつー話もあるんですけど。またあとで追記するかも知れないです。

議論の性質について

そもそも議論は何のために行われるか。何らかの事象に対する答え、もしくは考えるための材料が必要だからだ。考える材料がなければ考えることはできない。その材料と自らが既に得ていた材料に齟齬があれば、比べて確かめればよい。出てきた答えや材料が自らの望むものであれ望まぬものであれ、発した人間と異論を唱えた人間の勝負であるという観点など、もとより含まれていない。

まず、議論の材料に何一つ不明確な点がなくても議論は成立するし、色々な問題は大半突き詰めればそういう明確な解決策のない価値の問題だと僕は思っているので、答えやそれに繋がる材料を探すために議論をしているわけではない、と言うことです*1。たとえば、どこまで知性がある動物は残虐に扱えない、その他色々倫理の問題など。その問題に関わる人の幸と不幸を比較しなければいけない場合。どちらを重視するか。タバコは街で吸っても良いのか。
こうした場合に、それぞれの議論に参加している人が目指すのは如何に自分の持つ価値の天秤と、議論の結果を近づけるか、自分の意見を支持してくれる人を増やすか、という勝ち負けの問題だと思います。そうでなければ、議論に参加する動機がないからです(自分の意見が無く自分以外の人々で結論を出せばよいと思っているなら参加する必要がない)。

議論するなら勝ち負けを決めろ、というのが最初に設定されるのであれば、対話自体が必要なくなる。いわゆる「おれの方が頭いいよねゲーム」や「おれの味方が多いよゲーム」というのは「ゲーム」と名の付くとおり議論ではない。「おれとお前とどっちが正しいか決めようやないか」なんてものは単なる宗教論争であって、そんなのどっちも正しいがな、勝手におし、となる。

僕は、対話相手に応答を要求するものを"議論"と呼んで他の対話と区別していたので、ここで述べられている議論とは全く別のものです。そして、「おれの方が頭いいよねゲーム」はともかく、「おれの味方が多いよゲーム」の過程は議論でありえると僕は思います(議論と呼ばれているものの一部は「おれの味方が多いよゲーム」だと思います)。

簡単に書くと、議論というものは、このような絶対の結論が出ない(可能性の方が高い)からこそ続けられるものだ。もし、勝ち負け、つまり絶対の結論がどこかにあるのなら、議論は始まらないのだ。

議論は結論を出す、集団で何かを決める時にするもの(でもある)ので、勝ち負けが絶対の結論なのではなく、勝ち負けで結論を出さざるを得ない場合もある、というのでは議論は始まらないでしょうか? 僕が言っている勝ち負けというのは、より多くの人の支持を得る、と言うことですが(相手の間違いを指摘する、と言うのも方法の一つです)。
論理的に回答を出せるけど簡単には議論が終わらないような問題を扱うもののみが本当の議論であるとすれば、麻草さんの仰るとおりだと思いますが、僕が想定している議論は全くそういうものではないです。
文章の後半で僕がなぜ議論で勝ち負けにこだわれ、と書いたかの理由が推測されているので説明すると、議論で勝ち負けにこだわらないことが美化されすぎていると思うからです。そしてそれを根拠に、議論に参加している人を貶めるような言い方をされるのが好きではないし、不当だと思う、ある種の議論はまさに勝ち負けを決めるために行われているし、むかついたので言い負かしてやろう、というのだって、議論云々を根拠に貶すのと比べてどっちが悪い、と言えるようなことでもない、と思います。
なので、"議論によって何か結論が出るように夢想している「理想論を掲げる奴」"にむかついている、と言うことではないです。僕にとっては議論で出た結論は他の人が話し合ってそう決めたか、正しいと認めたか、という話でしかないので。
あと、純粋に理想の議論、というのを想定するなら、まず両者に意見の食い違いがあって、両者の意見をバラバラに分解していって、どんどん単純化していった結果、両者の違いはAを重視するかBを重視するかの違いである、と明確に把握できるようになるまでの過程、を思い浮かべます。

*1:これは"議論"として扱う範囲の問題なので違うのならそれはそれで構わないです