アイドル道徳について(1)

K2Da2006-08-08

アイドル道徳というのは、アイドルファンの間で共有されている規範、また、規範の基礎にある思想をさす僕の造語です(たった今、造りました)。様々な形態が存在しますが、一般によく見られるのは、規則功利主義をベースに、一部、卓越した善として"アイドルの選好"を導入するものです。ほとんど全てのアイドル道徳は基本的な構造に無理があり、実地での解釈に広く幅がとりうること、また、そもそもアイドルの選好を正確に把握すること自体がまず困難であるため軋轢が絶えません。
アイドルファンがある行為を規制したいと考えた場合、

  1. その行為がファン集団における幸福の総量を減少させている(不幸の総量を増加させている)ことを指摘する(功利主義に基づいた主張)
  2. その行為がアイドルに望まれていないことを指摘する(アイドルによる選好の卓越性に依拠した主張)

のどちらか(もしくは両方)を説得力が期待できる主張として選択することが可能です。また、両者には全く関連性がないため、しばしば解決不能な対立となります。

功利主義的な側面について

まずは、アイドル視点を持ち込まずに、ファン集団内部の利害のみに基づく規範であるファン道徳の一例としてコンサート会場(以下、現場)でのマナーを考えることにします。
ここで観察されるのは、古典的な功利主義と、現代的なそれの対立です。現場系でよく見られるのが、快楽計算に基づいた古典的功利主義であり、逆に、インターネット上で最も大きな勢力もっているのが、個人の選好に基づく消極的功利主義です。
コンサート会場で得る幸福を数量で現すことが出来ると仮定した場合、たった一人のオタ芸師が得るトランシーな快楽が、数多くの野鳥の会*1の得る幸福の総量を上回る、ということは十分に考えられる(もちろん逆も考えられるわけですが)。行為がもたらす結果を重視するなら、ここでのオタ芸は幸福の総量を増大させているため、善そのものです。さすがにそんな考え方はおかしいやろ、というインターネッターは幸福量の最大化ではなく、不幸の最小化を目指す消極的な功利主義を採用することにしました。得られる快楽にかかわらず、出来る限り他者の不幸を引き起こさないように規則を制定し、それに従うことが善となる。ここではもちろん規則としてオタ芸を規制し、それに従うことが善になります。総量ではなく選好を重視する、については良く意味がわからなかったので特に触れません。
ここでは単純化して考えましたが、実際のオタ芸問題にはもっと複雑に様々な論点が絡み合います。「本当の一体感」に代表される神秘的な評価軸が導入されることもあるし、オタ芸師を単純に利己的な人間と見なすことも出来る。また、道徳は共同体の中でしか機能しないものであり、そもそも在宅系と現場系は共同体を構成していない、と言う立場をとるのであれば善悪の評価自体不能なはずです。しかし、一緒に応援する仲間が共感の外にいて良いはずがない、という思想がそれを許さないのであって、やはりアイドルの選好は全ての局面に置いて大きな意味を持つのでその辺について考えたい。

*1:棒立ちのままコンサートに参加する人