10/30(日)

仕様としてある思想と、実装としての態度/言動とそれに対するDISについて書きます。
集団や思想にはどのような目的も設定可能である、という所から出発すると、思想それ自体については内部での一貫性さえ確保されていればその思想はDIS安全性が保証されていると言える。価値主張をベースにしたDISに対しては、私共はそのような価値を共有しておりません、といえば済むので(どんな種類の人間でも共有しているだろうと思われる価値や、国内の問題に対する憲法などについてはとりあえず措くとして)。
で、その、思想が実装された人間の行動には勿論相互に矛盾したように見えるような言動や何かが、いくらでも見つけられる(特に、複数の人間によって構成される集団の中で各人を比較すれば)はず、なので、いくらでもDISが可能である(本当はDISなどという横文字ではなく"批判"と言いたいのですが、"批判"という言葉はそういう意味でない、とよく言われてしまう、"批判"は批判フリーな単語ではないので、替わりにDISと言っているだけであり、私のバックボーンがストリートにあることを特に強調したいわけではありません)。しかし、世界にあまた存在する実装を幾らDISったところで、それで仕様の誤りを指摘できるわけではありません。仕様は常に曖昧であり、幾らでも解釈可能だからです。その行動はもともと仕様には含まれていなかった、たまたま多くの実装で共通してみられる特徴であるだけだ、とか。あるいは、それは誤った仕様解釈をもとにされた実装である、その他色々。その上、人間が実際に仕様を見てから設計されているわけではなく、たまたま類似した特徴を持つものをそのように解釈しているだけなので、これは全く有用な行為ではないといわざるを得ません。実装困難な仕様はその点だけを考えても、"良い"仕様ではない、といえるかどうか、言えたとしてそれはどういう意味か、というようなことを、共産主義とモヒカンについて。