日記について

はてなブックマークからは日々新たな知識が手に入る。思考する際に、音声ではなくテキストや映像が頭に浮かぶ人がいる、というのを私は知らなかったし、結論が出ない、考えてもしかたのないことをくよくよ考えてしまうことを病的反芻と呼ぶのはいいアイデアに思えた。

私は、毎日往復一時間かけて徒歩で通勤している。何も手を打たないと容易に病的反芻に陥る。同じ考えがぐるぐるしている。ぐるぐるした結果として、私の場合は主に音声が浮かび上がってくる。ぐるぐるしているものは大体がしょうもない事である。比較的マシな方では、今、頑張っているゲームで何かがうまくいくこと、シーンを反芻し、最悪なパターンでは仕事上のどうしようもない問題について考え続けている。それらが浮かび上がってくるままに任せている。これは良くなかった。昔は違った。昔は日記について考えていた。日記について考える手順について詳しく説明しよう。まずは何について考えるか決める。今だったら、例えば一番に思いついたのはベッキーについてだが、ベッキーについて無意識に考えてしまうことは許容するにしても、意識的にテーマを決めるのであればベッキーは避けたほうがいいだろう。ベッキーは避けてテーマを決める。テーマを決めたら書き出しの一文を思い浮かべる。はてなブックマークを褒めるところからスタートしよう。その一文に続く文章は出てこない。なぜならまだあまり考えていないからである。仕方ないので、頭のなかで一文を繰り返し思い浮かべてみる。だから結局は反芻しているのだが、意識的に決めたテーマであるから、普段あまり考えていないことなので、思考が進む。普段はてなブックマークそのものについて考えることなんてないはずだ。思考が進む、というのが具体的にどういうことかは説明しにくいが、頭に思い浮かんでいる文章は思考のごく表面の、浅いところが文字列となって浮き出しているだけで、それ以外の認識できないところで進んでいるのだろう、と、イメージしている。十分に進むと、それが文章になって思い浮かぶ。閃いて随分と長い文章になることもあるし、何十回も同じ文章を反芻しているのでは? という場合もある。進まなくなったら、適当なところから反芻する。忘れてしまうものも多い。家についたら、思い出せるフレーズをタイプしながら適当につなげる。歩いている間に出てこなかった文章が出てくることは多くない。したがって、日記について考えるのは楽しいが、日記を書くのは退屈な作業である。歩いている間に浮かんでいた文章は常にもっといいもので、その再現として不完全だからだ。