読書日記(1)

意味と目的の世界 (ジャン・ニコ講義セレクション)

意味と目的の世界 (ジャン・ニコ講義セレクション)

近所の7-11に到着してから5日程経つけどまだ20ページしか進んでいない。20ページしか進んでいないけど、この本の残り300ページにはとても興味深いことが書いてあるのだろうな、という気分にさせられる。P7。

甘いものを好むことの生物的目的がなんであるかは明らかである。甘い味は、高カロリーの食物を摂取する行動を増加させるように設計された、自然の誘惑者ないし強化子である。甘さが人間の行動を強化する(笑みもそうである)という事実を支えているのは遺伝子であるが、条件行動の目的はもちろん遺伝子のそれと同じではない。

P9。

「おのずと頭に浮かんでくることを行う」というのは、必ずしも良いこととはかぎらないが、理性や文化が現在たまたま命じていることを行うこともまた、そうなのである。

P13。

結局、われわれはわれわれの自己のさまざまな部分や側面すべての総和かつ相互作用であり、またその逆もいえる。したがって、それらの目的はすべてわれわれの目的であり、その逆でもある。厳密に見れば、人全体の目的とサブパーソナルな目的の区別は崩壊するのである。

P19。第一章「人間の目的とその食い違い」の最後。

わたしの関心は、本当の目的、つまり人全体の目的--わたしの目的--と、わたし全体の部分や側面を含めて、それほど高次でない事物の目的のあいだに、大きな裂け目があるのだという通説を解体することにあるのである。

美しく統一された知性(意識)としてのわたしに対して夢見がちな僕としては、そろそろ諦めて本格的にこの路線へ転向すべきだろうか、という気がする。これ読んでて思いだした。「自由は進化する」。P353。

ある精神的なコンテンツが意識になるのは、脳の中の特別な場所に入るからじゃないし、特権的な謎の媒体に転写されるからでもない。他の精神的なコンテンツとの間で、行動を仕切る競争に勝ち、長期的な影響力を勝ち取ったからだ--あるいは誤解を招く表現ではあるけれど「記憶に残る」からだ。そして人はしゃべる動物で、自分自身に向かってしゃべるのは最も影響力の大きい活動の一つだから、精神コンテンツが影響力を勝ち取る有効な方法の一つ--唯一じゃない--は制御機構の言語利用部分を掌握することだ。

ここは何回読んでも、ほほぉ、なるほど、と思う。僕が意識だと思っている物は、心の中で行われている演算の一部を、すべてが決定された後に直列化して言語利用部分に流し込まれただけのものなんだぁ、ということで多分ここで書かれているようなのが、"百鬼夜行"認識モデルとかいってイーガンの「決断者」をインスパイアしたとか訳注に書かれてる考え方です。
イーガンの長編で違和を感じるのは、心理的なエンジニアリングを施せるようになっても登場人物が目的や動機を維持出来ているところで、ちゃんと説明されているような気はするんだけど不思議感はある。数学の美しさに心をひかれる、とか。動機や目的を自在に入れ替える人ばかりが登場する物語が成立するのか、はかなり疑問なので長編では難しいのかもしれない。短編だとそういう状態をあつかった物がわりとあって「しあわせの理由」、「放浪者の軌道」、「決断者」あたりはそういう話でとても面白い。
また同じことを書いてしまった……。「意味と目的の世界」がなぜ読み進められないかを考えたい。この辺を扱った本は、ピンカー先生のと、さっきのデネット先生のものしか読んだことがないけどどちらもとても読みやすかった。*1「意味と目的の世界」はうしろの方をちょろっと見たけどかなり読みにくい……。適当に読んでいると全く分からなくなる感じだった。
あと、第二章が進化の話なんだけど、よく考えると僕は一生進化しない(比喩的な意味では絶え間なく進化し続けているけど(自転車に乗れるようになったり、とか))のでいまの状態については興味があるけどなぜ進化でそういうことが説明出来るのか、については説明可能であるという以上の詳細は必要ないからではないか、結局の所、進化を実際に体験出来る生き物は一部のポケモンだけだから。ポケモンに出てくる進化は本当に酷くて、あれではプレイヤーが進化について誤解するのではないかと思う。ある個体が別の種に変化するのは進化ではない(そんなことは起きないけど)。種 <-> 種 の関係と個体 <-> 個体 関係が区別されていない。名前についても同様で、ピカチュウは種の名前であるのと同時に、個体の名前であるから、ポケモンワールドでは意識的に種と個体を同列で扱っているのかもしれない。また別の解釈としては、ピカチュウ種である<ピカチュウ>がライチュウに進化するときは本当に進化している、つまり一旦<ピカチュウ>は死んでしまい、ピカチュウ種から進化した種であるところのライチュウ(のうちの一個体)に記憶とパーソナリティが移植されて、新しい<ピカチュウ>として扱われている、というのはどうか。他者のアイデンティは記憶と信念によって維持される説にのっとれば、物理的には完全な別物になっていようと<ピカチュウ>として扱えるだろうか。また、女神転生シリーズはペルソナ3以外やったこと無いので分からないんだけど、悪魔合体をした後の悪魔についてキャラクターとしての連続性を普通は感じるものなのかどうか、に興味があって、感じるのはなかなか難しそうなんだけど、どうなんだろうか。二次創作ではどう扱われるのか。まぁ本当はそんなに興味ないですが……。

*1:「自由は進化する」を少し読み直していたら、「これほどすごくはないけど、でももっともいらだたしい裏切りがスティーブン・ピンカーだ。」P36とあって前読んだときも思ったんだけどどの辺の話なのかよく分からない