こんにちは(1)

まずは<ステイタス>と<道徳>のない世界について考えたい。趣味、余暇に楽しむ行為、ものごとを見る目、センス、に関して、<快楽スイッチ>、<道徳>、<ステイタス>の三要素を絡めて考えているので、まずはそのうちの<快楽スイッチ>だけが存在する世界について考える。この三つには何か根拠があるわけではなく、単に僕が趣味について感じることを分解していったらその三つにわけられそうな気がした、ので、逆にそこから組み立てていってくそったれな趣味人やなにかに関してその内部だけでも整合性を保った結果を出すことが出来れば成功です*1
<快楽スイッチ>は押すと気持ちよかったり楽しかったりするスイッチで、だいたいみんなが同じ種類のスイッチをもっている。押しすぎると飽きるので、スイッチが移動したように見えることがあり、さらにその移動の仕方がどの人間にとっても同じような方向への移動であることも多い。しかしこれは単純に飽きと馴れからくる移動であり、それ以上でも以下でもない。洗練ではない。スイッチの数や場所を選んだり希望することは出来ないけれども、強いて言えば数と強度が多い方が楽しい生活を送ることが出来るのでそちらを希望する方が自然。<ステイタス>も同じように時間で移動しますが、それは自分を大多数の一般人と違う場所に置くための移動なので、成り立ちが全然違います。また、<ステイタス>の変化は個人ではなく集団をベースに起るし、より循環的です。
<快楽スイッチ>しかない世界は単純なのでこれで終わり。所与の条件からいかに快楽スイッチを沢山押すルートを見つけるかが肝です。
<ステイタス>が入ると面倒なのは<ステイタス>自体が<快楽スイッチ>の報酬として与えられるため単純な綱引きではないということです。あと、名前も良くありません。よく知らない横文字を使うのは逆にダサいので<ステイタス>は<モテ>と表記した方が馴染むし、また一層インターネット的でもあります。もちろん、これは単純な言い換えではなく、僕がステイタスに対して持つ悪感情をも上手く表現しています。
<モテ>たさをネガティヴに評価しているのではなく、それをなにかそれ自体意味のあるようなこととして言うのが滑稽だという話です。モテたさは常に滑稽であり、優秀なオモシロ話は常にモテたさをはらんでいます。<ステイタス>はモテたさの純粋な主張、あるいは一目置かれたい、という願望のストレートな表現であるにもかかわらず、滑稽にでもなく肯定的に捉えられる世界があるのは一体どういう事か。この、<モテたい>から<ステイタス>への姑息な変換は日常的に行われており、例えば、あるコピーライターが、食欲、睡眠欲、性欲を、クウ、ネル、アソブ、と変換した、などからもそれを読み取ることが出来ます。

*1:実際は最近読んだ本、小説と、もう一方はそうでない物、から単純に影響されているのですが名前を出すと逆に悪い印象を持たれそうであり、そのまま書いているわけではないので書きません。ヒントは両方とも外人です