最近、比較的古い小説を読んでいて、無知な人が無知であることそのもの、に関して滑稽味を感じて笑う、という機会が続けてありましたが、これが現代が舞台だとどうにも素直に笑えない、素直に無知を笑えるような対象がまず居ないし、あったとしてもどうにもそのような笑いは善くないことであるという気がしてしまって素直に笑えず、無理にそこを目指すとどうしても自虐の色を帯びてしまうのではないだろうか……。これは古典にのみ許される笑いではないのか、しかも無知だけではなく、月並や凡庸を笑うということも、また成立しにくいのではないか、僕はどうもそのようなものが同時代のものとして現れた場合、滑稽味より先に嫌味を感じる、のですが、これは僕個人の性質に拠るのかも知れません。
たとえば、ガッツ石松さん、ファニエストイングリッシュ、御長寿早押し、などは立派にエンターテイメントとして成立しています。しかし、石松さんはああいう人だし、ファニエストイングリッシュはどうも自虐的な色合いが濃いよう思うし、ご長寿だけはどうしても好かんけれども、別に今でも十分に成り立つものなのかなぁ。お国柄ジョーク、他の国でどう成立しているのか知りませんが、僕は笑えないです。どうもストレートなそういうものは難しいのでどんどん複雑なところへ行くし、そのために準備しなければならないのでしょうか……。
僕はオタクなのでDQNが敵、と思っていますが、笑える、とは全く思えず、これは迷亭先生が曲覚的にそう思い描いたところの未来芸術論に通じるものがある、あと島宇宙とか、と思いました……