本を読んでも読めてないことについて(4)

インターネット大喜利(参考)に挑戦しようと思ったのですが、書いてる内に面白いとはどういうことかがなんなんだかわからなくなってしまって、どうしても駄目でした。オモシロ観が定まっていない人間が挑戦するには少し難しすぎるようです。今のような中途半端な状態でインターネット大喜利に挑戦して醜態を晒すよりは、しっかりと、色々なことを考え直してからもう一度挑戦したいです。
幸い、期限は一週間程度を見込まれているそうなので、今、一から考え直しても間に合うかも知れません。小学校の卒業文集で、見事、クラスで面白い人第4位にランクインした実力を発揮できるよう頑張りたいです。

アイロニーについての続き

上の文章は、自分の、インターネット大喜利にかける意気込みを述べたものですが、これをアイロニーとして、とりうるかどうか。通常の大喜利に準拠した枠組みで考えれば、(建前上)大喜利とはお題を出されてから回答するまでの瞬発力、を競う、ものであって、自分のオモシロ観を見直してから改めて解答を作成するようなものではない。ここで、大喜利準拠枠にそった思考は異常に遭遇する。しかし、勿論、また別の準拠枠、日記書きとしての準拠枠からすれば、一つの日記を書くのに数日間の調査と思考の繰り返しが要求されるのは当然である。大喜利準拠枠から日記準拠枠に移行することによって、異常は解消され、"(もし、居れば)インターネット大喜利に過剰な労力を注いだ人物の品格が傷つけられる"≪ユーモア/アイロニーの成立≫
ここにみられる、僕がとりがちな日記戦術をもう一つ指摘しておくと、"大喜利に過剰な準備をもって当たる"ことを自分自身の(挫折した)行動として記述することで、自ギャグ的な色合いを持たせようとしている。
「本を読んでも読めてないことについて(3)」で、自傷/自虐的な物言いが、特定の誰かを攻撃しないユーモアとして成立する、と言うようなことを書きましたが、完全に間違いました。たとえば、Aというミュージシャンは文句なしに駄目、聴いてるやつもゴミ、まぁ、俺も好きだけどね! というのは、もし仮にそれ(俺も好き)が事実であったとしても、やはり好きでない場合と同じように腹が立つ言い方、であり、そうした発言として受け止めねばならないのではないか、つまり、ゴミである、と、俺も好きだけど、は独立した、関係ない記述なのであって、僕が怒りを覚えているのはゴミである、の部分なのだから、やつがそれを好いていようが、いまいが同様に腹を立てるべき、ではないか。
まして、それがアイロニーとして記述された(事実ではない)好き、だとしたらもっとたちが悪いのであり、弾劾するべき。そして世の中の、俺もそうだけどね! 的な記述はもはやそういう事実かどうかのレベルを超えて、反論を封じるためのスタンス、罵倒芸と同じような効果を狙った書き方ではないか、という気がいましました!
話がそれました。思考の準拠枠のズレがユーモアを生み出す、といって思い浮かぶのは、インパルスさんのコントです。インパルスさんのコントは大抵、板倉さんが異常な準拠枠にそった言動を繰り返すと言う構造になっています。すごいなぁ、と思うのは"枠"の部分です。つまり、最初から最後まで、板倉さんがなぜそういうことをするのか、については板倉さんの準拠枠にそって考えれば当然のことであり、ただメチャクチャ言えばいいと言うわけではない、最初から最後まで、変人の思考の枠が浮かび上がるように、ずれていても一貫した言動を保っているのが上手いなぁ、という感じに繋がるのではないか。(そして、そのずれた思考の準拠枠を、一回きりのコントではなく、キャラクターとして使い回すのがキャラクターコント番組と言われるものです)
つまり、僕が今回大喜利に参加するとしたら、終始一貫して同じ方向へずれた回答をするべきです。たとえば、質問者(大喜利出題者)に対して、なぜか異常に親身になって回答するとか。

追記

普通に回答するのと、異常に親身に回答するのはどっちともやってみたのですが、どうしても出来ません。面白いことを書く、というルールから更にずれるというのはとても難しいことではないか、と思います。才能がないだけでしょうが……。