「猫」について

奥泉さんの「『我輩は猫である』殺人事件」の予習として、「我輩は猫である」(以下「猫」)を読みました。
これは純然たる自慢ですが小学生の時分に通しで五、六遍は読んでいるので今更読み返す必要は無いんだけど、読んだ時期によってまた本の味が変わるというのを初めて体験する事が出来るかもしらんということで読み直しましたよ!(元気)
子供の頃に読んだのと印象が違うかどうか、といっても当時の印象があまり鮮明ではないのですが、苦沙弥先生と実業家について、寒月君の恋について。また、先生だけでなく作品中矢鱈に巣鴨だ、気違いだ、神経病だ、鬱だ死のう、などと出てくるところなんかは違う印象をうけました。古い割には楽しい本だなぁ、程度に思っていたので。今回読み直して改めて思い出した疑問は、銭湯に現れたニーチェ的超人がなにをやっているのか全く分からないところ。「うめろうめろ」って叫んでる人なんですけど。あれは明治時代の風習なんでしょうか。
僕は迷亭みたいな人になりたいです。

迷亭もこうなると何とか月並みの処置を付けなければならぬ仕儀となる。「奥さん、月並みと云うのはね、先ず年は二八か二九からぬと言わず語らず物思いの間に寐転んでいて、この日や天気晴朗とくると必ず、一瓢を携えて墨堤に遊ぶ連中を云うんです」「そんな連中があるでしょうか」と細君は分からんものだから好加減な挨拶をする。

ちょっと聴くと何を言っているのか全くわからないんだけど、実際はそれなりに筋も通り、また世の中を皮肉るような、面白がるような事も含まれているんだけど、シャイでそれを素直にいえないもんだから周りの人には理解されない……、みたいなね。迷亭は小説の登場人物なのでそれでもいいですが、僕は現実世界に生きる人間なのでそれだとただの奇人になってしまい、また皮肉めいた事もいえないのでまぁ迷亭は諦めますけど……。