「透明感のある文章」について

YO 朋輩ニガー。「文學界」(←何故か変換できない)六月号、選評「透明感のある文章」読みました。選評は短いのですが、その前に受賞作を読まないといけないのでそれが大変でした。結論から言うと、これを読んでも「透明な文体」がなんなのかはわかりませんでした。ただ、「透明感のある文体」、は「透明な文体」とは違うもので、奥泉さんは透明感のある文体が個性的でない、書きやすく手軽に文学的になる、ので評価していない、という事はわかりました。ちなみに、文章、と文体、は特に意図して使い分けられてはいないように見えました。透明感のある文体の特徴としては、語り手と対象世界に安定した関係があり、そこになにかが起こることでそこはかとない異化の風情をかもし出す点が挙げられるそうです。これはストーリーの特徴であって、文体とは関係ない、直接は、んじゃないか? と思いましたが、同時に現れる事が多い特徴、なんでしょうか。多分、「透明感のある文体」というのはよく揶揄するように言われる所の、村上春樹風、の事だと思います。
「透明な文体」と「透明感のある文体」は違う、と書かれているだけなのでどこがどう違うのかはわかりません。実質、手掛かりとなるのは

これは近代リアリズム小説を特徴付ける「透明な文体」とは異なる。

という一文だけです。もういい加減google:透明な文体で検索して答えを探そうかな、多分常識なんだろうし、と一瞬思いましたが、これはそういうことをしない企画なのでそれはしません。僕だけの透明な文体を探します。手掛かりになるのは「近代リアリズム」なのですが、これも実はわかりません。なにかがリアルなんだな、と解釈しておきます。あまりにも手掛かりが少ないのですぐに結論が出てしまうのですが、つまり、ここで透明なのは文体であり、透けて見えるのはリアル、現実、であるという事です。ただ、リアルに透けて見えるのが語り手の心情であるのと、実際にその場で起きている出来事であるのではまた大きく違うように思われるので、結局なんだかわかりません……。つまらない終わり方ですいません。
これは今自分で思いついたんですが、「地の文が主張しない 言文一意的な 物語の滑らかな消費を目指す 隠れた話者 的な 文体」を透明な文体、としておきます。