日本人の日記能力について(透明な文体2)

今、凄い奥泉さんブームなのです。以下は群像6月号の奥泉光さんと町田康さんの対談から、奥泉さんの発言の引用です。

問題はいわゆる自然主義リアリズムですね。自然主義というのは、言葉を節約する。言葉をさほど費やさずに、ありのままの私の、ありのままの状態を書けばいい。それが人生の実相を浮かび上がらせるのであって、そこに価値がある。という思想が近代以降ずっと影響力を持ち続けてきた。

黒人ミュージシャンが最初から独自のリズム感を持っているというのと似たような意味合いにおいて、日本語でリアリズムを書くと、みんな最初から相当にうまいと思う。

こっちは上の発言を受けての町田さんの発言。

日本語の蓄積がね。技術の蓄積というよりも、むしろ僕らが書き言葉として使う日本語の蓄積の中に、そういうものがピックアップされてある。

僕は強いて言うと日本語が一番得意、次いでC言語、英語の順に親しんでいるんだけれども、C言語で記述された日記はかって見かけた事が無いし、英語で日記を読む/書くのは何回か挑戦したが全て能力不足で挫折している。だから、日本語で書かれた"日記"にも上で言われているような特徴が見出し得るかどうか、他の言語で記述された日記と比較、確認する事が出来ないんだが、上記のような傾向ではないにしろ、言語によっても日記は明らかにその特徴を制限されていると思われる(というか、日記が言葉でかかれている以上、使用されている言語の違いというのは、同じ言語でかかれている日記との違いとは比べるまでも無く絶対的に大きい、という見方も出来る。出来ますか?)。
しかしまた一方で過去に様々な活動が翻訳によって言語の違いを超えて移植され実践せられてきたというのも事実で、英語で俳句を詠む、という僕にはとても思いつきもしない難事業だって市民権を得ているらしいから、異なる言語で書かれた日記のある要素について模倣する、或いは全体を翻案する、などは有望な試みであるように思われる。Blogという良く知られた先例もある事だし。
僕は何とかして日記で一旗上げたい、一山当てたい、日本のネット史に名を残したいと思っているのだけど、それには日本ではまだあまり流行していない、実践されていないスタイルの日記を異なる言語で記述された日記から見つけだし、十分に自分で消化、発表する事が一番の近道ではないだろうか。
日本のオルタナティヴ日記は彼無くしてありえなかった、日本に初めてあのスタイルの日記を持ち込んだ(紹介した)のは彼、もしくは、日本語によるミニマル日記の確立に尽力した人物。とか。言われたい。これ、英語学習のインセンティヴとしてはどんなもんでしょうか。英語学習を可及的速やかに再開したい、という話でした。