姿勢とか

ネット上の言動はかなり情報が足りないので、情報を補完してリアルな言動に変換して、それから読んだ人の感情に影響する。補完されるのは、誰に言ってるのか/どういう態度なのか、etc。飲み屋のおじさんの言っていることをそのままブログにするとものすごく偉そうですぐ叩かれそう。
補完の方法はシステム的なもの(miximixiの知らない人の日記を読むとあまりにも偉そうで精神に悪い)、あとは文体。ブログ文章は基本超丁寧(しゃべり言葉に比べたら)。文体でやる方法は色々ある。ジャーゴンを入れて読者を限定した風にする、オモシロ言葉を入れる、芸だと言うことにする、など。それに対する想定外の反応は無粋であるとして切り捨て。
というあたりのことはみんな無意識にか意識してかやっている、のだが、自分が出来るかどうかは別としてそういうことには長けていた方が良い、システムはいつまで経っても追いつかないだろうし、と言うところを開き直られた感じが嫌すぎる。あと、ネット上の言説で論理的だと言われているものが、大抵そうは思えない、いつの間にか勝手にルールを作ってその上で追い込んだだけ、という感じに見える(漠然とした言い方)が多いように見えるので基本好きではない。好き嫌いだけじゃだめというのは特に分からん。ルールは最終的に好き嫌いを上手いところで調整できるようにしたものなのだから、(実際適用する場に置いて)常に妥当かどうかを考える余地があるはずであるのに(ルールは絶対に適用する、と言う考えならそれでも構わないが現実的ではない、交通法規はルールだから絶対守るのか、みたような)、それの基準となる好き嫌いが情報として無価値、と言うことは有り得ず、あと好き嫌いについて本当に納得のいく説明というのは出来ないし、出来ると思ってる人は信用ならない。
笙野さんと大塚さんの文学論争の本を読んでいるのだが、大塚さんは「偉ぶってる文学の実態を明らかにする」と言う下からの行動、スタンスっぽい、もしくは偉ぶってるけど中身がない、と言うようなことを言ってるように見える(本には大塚さんの分は収録されてないので想像。読んでも想像しかできないけど)のに、笙野さんは「抑圧されてた純文学が更に訳の分からないいちゃもんをつけられた」という風に捉えているみたいで、どちらも下からの反応なのが激しくなる原因かなぁと思った。まぁ反応してるのは笙野さんだけなんだけど。
それと、ルール至上主義の人とそうだない人の争いが似てると思ったのは、どちらにも不当に迫害されたりしているという被害者意識みたいなのがある、と見えた、それが激しくなる原因かと思ったが、別に激しくなったりはしていないのであった。
ところで、大塚さんの純文学と金と群像の話、はプロ野球でも考えることが出来るかについて。プロ野球の球団も球団単体としては赤字だったりする、確か。それでも、プロ野球選手は大金をもらっているし、しかも彼らが出来るのは球を打ったり投げたりする、野球というルールの中でだけ有用な行為だから、あんなものは無くしてしまえ、といえるかどうかについて。あからさまに違うのは、野球選手のすごさは野球のルールの中で数字になっていること。純文学さんは数字にならない(これは僕が言ってるわけではない)。あと、ルールもはっきりしない(笙野さんによると複数あって、しかも時代で変わるらしい、まだそこまで読んでない)ことか。まぁでもその辺の違いはまた別の話か。