東浩紀「計算の時代の幻視者」を読んで思った事(1)

今日、「脳とコンピュータはどう違うか」を読んだんですが、その中に"計算可能性"という言葉が出てきます。コンピュータは何を計算できるのか?と言う事なんですが。「計算の時代の幻視者」にも物凄く唐突に、「計算可能性」と言う言葉が出てきまして。

言葉と物は、不可視の深層のうえに宙吊りにされるのではなく、計算の海のなかへ溶解する。学問と芸術の多様性は、表象不可能性への漸近線上に位置付けられるのではなく、計算可能性の切断面として理解される。

とかってなノリで。何言っちゃってんだこの人、と思いますが。えっと、芸術とか学問は色々違ってるけど、それは裏に訳の分からない神秘的なものがあるからじゃなくて、計算可能なピシッとした世界をいろいろな切り口から見てるだけだ、とかってことだと思うんですが。そうだとしたら、やっぱり計算可能性の切断面って変だよなぁ。可能性に切断面なさそうだし。計算可能な何かの切断面、だと思う。いや、それとも計算可能である事自体の切断面?と言う事なのだろうか。それは一体…。
実は僕は"計算可能性"と言う言葉を知らなくてですね、「順列都市」で言うところの発進した世界の事を計算可能性の世界と言うのかなぁ、と思ってたんですよ。計算が可能である事のみによって成立する世界、みたいな。違ったんですけども。