真偽の不明確な人死報告への対応方針について

拙者、迂闊にも都の条例制定に絶望するあまり都民でもないのに死んでしまったので、天国からこれを書いておる(念力で)。しかし、本当に、人の死を捏造する輩は許せませんな! といっても、道徳方面から非難しているわけではござりませんぞ!

死んでいることを明確に表現するため、普段とは異なる口調を使いましたが、無事生き返ったので、以降は普通に書きます。虚偽かもしれない、と思われる人死報告を目にした場合、真偽が気になってしまう、という方も多いのではないでしょうか。その人死が自分の共感範囲内の出来事であり、かつ、事実であった場合のみ、共感能力を発揮してお悔やみ申し上げねばならないが、そうでない場合はお悔やみ申し上げん!! という方針でいる場合、人死報告を目にした際、必ず共感範囲衝突判定、真偽判定を行わなければならず、処理が煩雑になる。その上、共感範囲をインターネットに公開すること自体にも伴って発生する様々な問題があるのだから、出来れば真偽判定で偽の判定を下して共感範囲衝突判定は行わずに済ませてしまいたい、というのが人情というもの。
# 逆に、共感範囲衝突判定を先に行い、"真偽にかかわらず共感範囲内"(非実在人物に対する共感能力を拡張済みの人)だとか、"真偽にかかわらず共感範囲外"の人は、"真偽など問題でない”という立場を取ると思われるが、どうか

私が、現在とってるのは、感じること自体は否定出来ないが、わざわざそれを表現することで追認する必要はない、という立場です。表現すると、ある出来事に接するかどうか、というのが、例えば、twitterを使っているかどうか、に左右される場合に、

  • 同じtwitter仲間にそんなことがあったなんて、お悔やみ……

となることを、認めることができるか、という問題が、他人から見て明らかになってしまうからです。実際に問い詰められることはありえないが、しかし、自分の一貫性に対して重大な問題となりうる為、対処が面倒ですから、これは避けたい。理想としては、できるだけ広く共感範囲を取りたい(取っている姿勢を示したい)わけだから、twitterに左右されるのは好ましくない。好ましくないため表明しない、という方針。

しかし、これは表明しなくても良いとする場合の対処方法でしか無いから、共感を表明すること自体が楽しい、とは言わないまでも、道徳的に正しい、と感じる場合は、面倒でも一々真偽判定していくしか無いかなー、いっそ突き抜けて、嘘の人死に共感を盗みとられたとしても何ら問題ない、という強い立場をとりうるかどうか、試してみるのもいいかもしれません。もしくは、制限されているのではなく、twitter外に共感する機会がないだけだ! モバゲーだったとしてもこちらまで届いていれば余裕。開き直って、もう地理的、時間的な制限ではなく、Web上に使っているサービスによりオキシトシンの対象が左右されるのだ! も検討の余地有りかもしれない。