イーガン日記

永井さんの本に「<今> ←→ <将来>(今以外)」と「<私> ←→ <私以外>」の関係が似てるとかどうとかいう話が何回か出てきたのを漠然と覚えているのですが、読んだ時点でぼんやりしている上に、だいぶ時間も経ってしまったので、以下は僕がおぼろに解釈した物を適当に書いているだけであり、永井さんがこう言っていた、という話ではないです。
<今>と<私>が全体にどう似ているかというと、意識を持っているとおぼしき人が僕以外にも沢山いるのに、<私>として認識されるのはid:K2Daのみであること、時間はずっと流れているのに<今>が2007年であること、のような"特異さ"が似ていると。<世界の開闢点>とか書いてあったと思います。開闢点というのはなんだか分かりませんが、エントリポイントみたいなものでしょうか。
で、確かに実際同じように処理されていると思われる分野があり、たとえば道徳関係です。自分だけ良ければいい、という意味での利己主義と、今だけ良ければいい、という利今主義がおなじように道徳的でない、とされている辺り。ある行為が善いと感じるかどうかの基準に、生まれつき組み込みの(というか、どういう社会で育ってもある感じの?)ものと、社会から刷り込まれる道徳があるとして、生まれつきの基準は自分がその対象に共感をいだけるかどうかに影響される(違う国の人ならどうか、哺乳類ならどうか、など)。道徳は共感の範囲を拡張する方向であることが多い。あと共感の範囲が広い人は好まれがちなので、偽装されている可能性と推測する、というところまで組み込まれているっぽい。
話は逸れますが、死ぬ死ぬ詐欺に対して「日本の難病の女の子を救う金である国の女の子を2人救える(ので2人救う方が良い)」というのはよく分からなくて、ブロガー風に言うと当時者性がない。それに、「ある国の難病の女の子を救う金で日本の女の子を2人救える(ので2人救う方が良い)」という感じに置換可能だからそのレベルでは平等だし(実際にはほとんどそういうケースはないかもしれないけど)。それより、「日本の難病の女の子を救う金で日本のおっさんを2人救える(ので2人救う方が良い)」というケースを主張してみてはどうか。おそらく億単位の金があれば首を括らずに済む人が沢山いるだろうけどそういう主張はあまりされない。「外国の女の子」についての主張をすると国籍で共感の範囲を左右されない拡張された国際人として受け取られるけど、「おっさんを救う」主張をすると、共感の範囲が自分の同世代に限定されていて逆に狭まる感じがするからかも知れない。だとすると、平等な条件にするためには「日本のおっさん」が「日本の難病の女の子を救う金である国の女の子を2人救える(ので2人救う方が良い)」という主張をするケースと、ある国の少女が「自国の難病の女の子を救う金で日本のおっさんを2人救える(ので2人救う方が良い)」という主張するケースを比較検討しなければならないわけだが、よく分からなくなってきた……。とりあえず言いたいのは、「日本の難病の女の子を救う金である国の女の子を2人救える(ので2人救う方が良い)」は凄くうさんくさい、ということです。距離的その他色々的に近しい日本の女の子を助けたいのは自然だろう、と思えるので、そこを言っても仕方がないのではないか、なぜそんな国際人アピールをするのか、と。僕個人は見知らぬ女の子をお金出して救いたいとは思わないので募金しませんが、募金をする人はきっと善い人なんだろうな、共感の範囲が広い人だろう、と想像できる。逆に「他国の少女を救うべき」というのはあまりにも拡張されすぎなので胡散臭い、と感じる。
(もしも、「見知らぬ少女を救おうなんて自己満足に過ぎない」と「日本の難病の女の子を救う金である国の女の子を2人救える(ので2人救う方が良い)」という主張を同時にしていると、とてもひどいことになる(他人については共感の範囲を疑い、自分については国際人アピール)という気がしますが、これは僕が内発的な共感に基づく行為は合理的でなくても善い行為だと感じがちな傾向があるからかもしれません。あと、善い人なんだな、とは思いますが善い人を好きなわけではありません)
ここまで全然関係ないことを書いてしまいました……。今日書きたかったのは、イーガンの新しい短編集に収録されている、並行して分岐した世界に対する共感、が割と想像しにくい感じだったのですが、これは読む人によって違うのだろうか、という事です。世の中には生命保険は自分の死後の、全く関係ない(存在しない、無くなった)世界のことなのだから生命保険は無意味、合理的でない、という考え方をする人もいるらしいですがそれはやはり無理がある感じがする、また、未来に限って言えば分岐した世界の双方について想像するのは自然だけど、既に分岐している場合はそうではない、とか。あと、ひとりっこ、オラクル、にでてきた、「常に同じ決定をする自分」というのは古典的な決定論で自由意志がない人、として嫌がられてたっぽいのに、ここでは歓迎されているなぁ、とか。まぁ世界の方が分岐しているのでそういう意味では1ルートしか存在しないわけではない、ということか。であれば、同じ入力に対して同じ出力を返す方が望ましい、という感覚は理解できるか、という辺り。