無味無臭である油の美味しさについて

僕はポール・グレアムさんが苦手で、「ハッカーと画家」なんかはほぼ全編もやもやした感じを抱きながら読みました。たしか、「ハッカーと画家」にも収録されてる、「How Art Can Be Good」(日本語訳:よい芸術とは)なんかはもっとも苦手なもののうちのひとつで、久しぶりに再読したらまたもやもやしたというか、はっきりいうと本当に嫌いなので、それは何故か、について考えたい。「よい芸術とは」に書かれていることの大部分についてはそのとおりだと思うのに、嫌いなんですなー。

でもこの議論を芸術にあてはめてはいけない。芸術はりんごじゃない。芸術は人工物なんだ。多くの文化的な手垢が付いているし、さらに芸術家がしょっちゅう私たちを騙そうとする。大多数の人々は芸術を判断するときに、これらの余分な要因に左右される。それは、りんごとハラペーニョが半分ずつ入った料理でりんごの味を判定するのに似ている。ハラペーニョの味をりんごの味だと思ってしまうのだ。これは、裏返していうと、世の中には鑑賞力のある人たちもいるということだ。つまり、りんごの味だけを味わうように芸術を鑑賞できる人たちのことだ。
もっと散文的に言うなら、彼らは (a)騙しにくく (b)子供の頃から見て慣れ親しんで育ったからという理由だけで好き嫌いを判断しない人たちだ。判断するときに、こういった影響をすべて排除する人々を見れば、たぶん彼らの間でも、なお好きなものに幅があることがわかるだろう。しかし人間には非常に多くの共通点があるから、彼らは非常に多くのことで意見が一致するとわかるだろう。彼らはほぼ全員、白いキャンバスよりシスティナ礼拝堂の天井画を好むだろう。

ここですよ! ここの意味がぜんぜんわからないんだなー。なんでこんな結論になるんだろう。芸術の鑑賞力(なにそれ?)にかかわらず、白いキャンバスよりも、青い草原の写真を選ぶだろうな、とは思うけど、システィナ礼拝堂の天井画を好むかどうかなんてわからないと思うのだけど。それは僕に鑑賞力がないからなのでしょうか。

何がトリックなのだろうか。おおざっぱに言えば、観客をナメているものだ。たとえば1950年代にフェラーリを設計していた人々は、たぶん自分たちが欲しい自動車をデザインしていた。でも私はGMでは、マーケティングの人がデザイナーに「SUVを買う人のほとんどは、荒れ道で運転するのではなく、男っぽく見せたいだけなんだから、サスペンションなんて気にしないで、吸入管をできるだけ大きく、頑丈に見えるようにすればいいのさ」と言っていたんじゃないかと疑っている。

ここなんかひどい。これはつまりフェラーリは芸術で、GMはそうでないといってるのだと思うけれど(その段階で読解できていなかったらすいません……)、製作者たちが本当に欲しいと思っていた、とか、実際に速く走るために必要だった、とかの情報が、トリックだとか、子供の頃から慣れ親しんでいた、とかのそぎ落とすべき情報とどう異なっているのか全然わからない。
すべての時代の、すべての人に共通した芸術に対する感覚というのは存在するだろうけど、それはフェラーリGMSUVの良さを見分けられるような精度のものではないと思う(もし、見分けられたとしても、それは不純な意図で大きくされた吸入管のせいではないと思う。なぜならそれは二十世紀のある時点、技術制約の中で意味のある情報に過ぎないから)。
という話を思い出したのは、「人がおいしいと思うものは本能が決めるんです」を読んだからで、これはすごい面白かった。

油を含む食品はほとんど例外なくおいしいと感じます。ですが新鮮でピュアな油というのは全くの無味無臭なんですよ。にもかかわらず油分を料理から抜くと、途端においしくなくなる。不思議でしょう? 
これも実験したところ、舌には油の受容体があり、油を取ったということによる興奮が脳に伝わっていることがわかりました。そのため油で興奮している最中に食べたものは、何でもおいしくなるわけです。
こんな仕組みがどうして必要かといえば、人間を含め、動物が飢餓に備えてできるだけカロリーを取りたいという本能があるからです。油は非常にカロリーが高く、その本能に合致しています。ところがその油に味も匂いもないので、手がかりとして油と一緒に食べたものをおいしいと感じるような仕組みになっているわけです。

その後で説明されている、マウスに対する実験が人間にも同じように影響するとしたら、つまり、まったく同じ味の料理が、ある日突然油抜きになると、最初はかわらずおいしいけど、段々美味しくなくなっていく、ということですよ! 同じ味なのに! すごい。この話は、価値相対主義、というか美味しさ相対主義を否定する、美味しさ絶対主義的な文章なのにすごい納得できる。炒め物が美味しいのは油が入ってるから!