既得権益としての謝罪芸について

一部の古参はてなユーザーが手にしているという、言論統制に繋がる既得権益とはなんなのか、が話題の中心だ。ネット空間で時折見かける『高度』に分類されるエンターテイメント性の強い謝罪、いわゆる謝罪芸がそれに当たると私はにらんでいる。
上記は一度使ってみたかったオモシロフレーズを適当に並べただけなので特にこれ以上言いたいことはないですが、話を続けようと思います。(『高度』はかなり良い表現なので、今度から感心したエントリにはみんなで[高度]タグを付けることにしたらいいのじゃないか、それこそがフォークソノミーだろうし、と思った。もちろん、[高度]タグが陳腐化しアイロニーとして使用されだすまで、二日とかからないだろうが……)
謝罪芸が得難い素質をもつ人間にしか許されていないというのは事実です。他に芸へ昇華可能であるとされている言説としては、例えば、罵倒(芸)、分析(芸)、ヨイショ(芸)などが挙げられる。罵倒芸の使い手は枚挙にいとまがないし、分析芸は反ネ土会学講座などでみられたようなものを指します。罵倒として十分に機能を発揮しつつ、同時に『高度』に分類されるエンターテイメント性の強い罵倒が罵倒芸だし、社会の悪を見逃さず、名匠が鍛えたナイフのように切り裂く分析が『高度』に分類されるエンターテイメント性を兼ね備えると分析芸になるわけだが。罵倒芸、分析芸もそれぞれに『高度』に分類される技能が必要ですが、謝罪芸の困難さはそれとは質が異なるし、難易度(易の字はアスキーアートとして使用しています)もぐっと高い。
真摯な謝罪であると同時に高度(以下略)なエンターテイメント性をもつというのは一見して不可能に思える。芸、がもつさまざまな印象が謝罪の機能を打ち消してしまう。たとえば、芸であるからには意図して反復可能でなければならないだろうが、あらかじめ予期されている謝罪というのはそれだけで真摯さに欠ける。謝るなら最初からするな、と謝罪された誰しもが感じるであろう。また、芸であるからにはそれを芸として冷静に操る芸人の目が要請されるだろうが、自らの謝罪の効果を計算する姿勢は真の謝罪者にふさわしくない。よって、謝罪芸人は謝罪する対象にはそれを芸と関知されず、なおかつ芸を鑑賞する観衆にはそれをはっきりと芸であると納得させなければならない。という困難な立場に立たされる。これを実現するためには、"謝罪する対象"は毎回"異なる"、"謝罪を鑑賞する観客"は毎回"同じ"、という状況を実現しなければならないわけだから、ここで古参はてなユーザーである、という事実がきいてくる。新規ユーザーを対象に意図的な謝罪を行い、それを大勢の古参ユーザーが鑑賞する、というはてなの悪しき慣習が既得権益として映ってしまうのではないか。どっかおかしいでしょうか。
まぁはてなのことはどうでもいいですが、謝罪は難しい。私は謝罪という行為の意味がよくわからないのであまり謝罪をしません。特にネット上での謝罪は難しい。難しいので記憶にある限りでは真摯に謝罪をしたことは一度もない。
間違ったことを書いたら訂正とともに謝罪する、という場合を想定するとして、これはまぁ訂正はするだろうが間違いは別に罪ではないので謝罪とは言ってもそれほど意味があるものでもないだろう、と思う。問題なのは誰かの気分を害したので謝罪する、というような場合です。誰かの気分を害したので謝罪をする。この場合、私がしたいのは害してしまった気分を回復する、ということです。基本的には別に他人の気分を害してしまったところで知ったことか、と思うわけですが、そこは敢えて回復したい、と思ったと仮定する。謝罪という行為に辿り着くには非常に多くの仮定を立てねばならない。ある他人の気分を害してしまい、私はそれを回復したいと思った。それに対する最善の手段はたいていの場合謝罪ではない。なぜ謝罪ではないかというと、この場合の謝罪というのは気分を害したことに対しての謝罪だからである。しかし相手が気分を害したのは、"気分を害するようなこと"をされたから、ではない。説明がしにくいので例をたてる。犬好きの人に対して「犬とか死ねばいいのに」と私が言ってしまい、相手が気を悪くした場合、「ごめんなさい」と言っても私が犬のことを死ねばいいのに、と思っている事実は全く変わらないので、謝罪しても意味がない。謝罪しても伝わるのは気を悪くさせようとしていったわけではない、ということくらいだ。なので、この場合はさりげなく「やっぱ犬も可愛いなあ、いつまでも、出来る限り永く、可能ならば永遠に可愛らしく生き続けて欲しい」と意見を変えてしまう方が良い。これは意図がばれても構わないが露骨ではない程度にさりげなく行う。依然として犬なんて死ねばいいのに、と思っているので嘘をつくことになってしまいますが、そう考えていることがばれると相手が気を悪くしてしまうのでそれは仕方ない。
上記は謝罪が相手に対してのみ機能するという隠れ仮定の上での話です。謝罪はどちらが悪かったかを公式に認める、つまり第三者に対して告知するという意味も持っているので、そちらを考慮すると事情が更に複雑になり容易には解決できない。個人的には即謝罪はあまり有効な選択肢ではないように思える。なんだか適当に放り出したような印象をあたえるからです。また、いよいよこれは謝罪をせねばならない、となったときの文面を考えるのも大変だ。基本的には周囲にも相手にも最良の印象を与えるようにしたいわけだ。そのためには真摯な姿勢が要求されるが、しかし、最良の印象を与えようとしていること自体が真摯ではないという印象を与えるので、そこらから自意識がにじみ出る可能性がある。「こう書くと……だと思われてしまうかも知れませんが」のような。しかしそのようなメタ謝罪も真摯ではない印象を与える可能性があるので控えた方が良いだろうか、などと考え出してしまい、本当に私が真摯に謝罪文を書くとしたら今のこの思考の過程も、どう書こうか悩み抜いた全てを記録するべきではないだろうか、のような血迷った考えに至ってしまう、という可能性もなくはない。というか、真剣に謝罪文を書こうとしたら必ずそうなる。そうなっていない謝罪文はだから適当なところで効果を計算してはしょった適当な謝罪文です。