『クオリア降臨』を読んで

クオリア降臨! 名著誕生!!(と、表紙に書いてある、帯ではなく表紙に)、読まずに批判するな!!ということで、読みました。この本がタイトルと表紙だけで笑えるのは、おそらく"意味不明なカタカナ語クオリア」" + "疑似科学っぽい詩的用語「降臨」"の組み合わせがいかにも大袈裟である、装丁も含めて大時代的、文学的に過ぎる(購入してから気付きましたが、この本は脳科学本ではなく"「クオリア」という独自の概念を武器に斬りこむ超斬新な文学論"("斬"の重複)("文藝春秋の新刊"(綴じ込みペーパー)より)なのです)からだと思います。
実は最後まで読めなかったのですがそれはなぜかというと一文一文に一々納得がいかない、とげとげしく鮮明なクオリア(質感)が私の中に現れて苦しくなってしまい読み進められなかったからです。
僕もこのクオリアをどう表現して良いものか分からないので、この本でも推薦されている印象批評で行こうと思います。まず読み始めると、いきなり海岸で貝殻を拾い世界について思いをはせたりするポエムから始まるのでガツンとやられます。この時はまだ文学界での連載だと言うことに気付いていなかったので、これはちょっと詩的な前置きのようなものだろうか、と思ったらそうではなく、最後までそうした詩的な文章が続くのです。それだけなら私の前に鮮烈な痛みとしか言い表せないようなクオリアは現れなかったと思いますが、なんて言うんでしょうか? 偉そう? っていうか、ちょっと伝えずらいので引用します。P35

クオリアによって価値が決まる。その点において、文学作品はゲルニカや松林図といった絵画と何ら変わるところがない。文学を初めとして、あらゆる芸術ジャンルにおける傑作を特徴づけるのは、その作品を体験することの中に潜むクオリアのピュアさであり、強度であり、熱であり、深さである。人間が生きるということの核への関わりである。
だからこそ、よほどの覚悟をもって臨まなければ、分析や解体をその生業とする批評家は、実作者に対して負け続ける運命にある。才能や志において負けるのではない。クオリアのピュアさにおいて負けるのである。

ほとんどの批評家はクオリアのピュアさで勝負などしていないので、別に負けても気にしないのではないだろうか、というかこの勝つとか負けるとかはいったい何のことを言っているのだろう、というのが全然わからないですが、重要なのは「クオリアによって価値」が決まると言うところです。作品自体の構造や性質ではなく、それに触れた人間の受け取ったクオリアによって価値が決まる、ということは、自然に考えると、触れた人によって作品の価値は違う、となると思います。私はゲルニカにも松林図にもワグナーにも心を振るわせたことがないので、私が作品から受けたクオリアによって価値を決めるなら、ゲルニカも松林図もその価値は0です。で、あるから批評は自分が受けた印象を表出(印象批評)するべきだ、してもいい、というのが大まかな話です。
ここまでは別にクオリアという言葉を使わずともごく当然のことだと思います。文学や芸術一般に対する理論は別に作品の価値を決めるためにやっているわけではないと思うのでそもそもなぜ勝ち負けにするのかは分からないですけど。
このような話が冒頭に納められていて、そのあとですよ。P134からの「「スカ」の現代を抱きしめて」に特に顕著なのですが、こんな感じ。

ある時期から、私は、現代の文化はスカばっかりだ、と至るところで公言していた。
ベストセラーにろくなものがないことはもちろん、批評家がほめるような文芸作品だって、後世に残る傑作だと胸を張れるのはごくわずかではないか。

クオリアが価値を決めるんだから、後世に残る必要なんてないやんけ、今それを読んだ人、今それを楽しんでいる人が受け取ったクオリアがピュア? であればそれでいいんじゃないの? クオリア体験は言語化も記号化もできないはずなのに、なんで現代の文化がスカばかりということが分かるんだろうか。何か秘密の儀式で他人の受けたクオリアのピュア度が測れるんでしょうか。そうではなく、自分が受け取るクオリアがピュアでないので現代の文化がスカだというのなら、俺が嫌いだから今の文化は駄目、と言っているだけの話で、何を偉そうに言っているのかこの人は、間にクオリアという単語が入っているだけじゃん。
大まかに言うとそういう、古典に対する信仰(ではなく、古典は事実としてすばらしいのだと思います(僕には理解できないものが多いですが))を堂々と告白し、どこかに降臨したクオリアで持ってそれを説明する、説明って言うかなんか文章があるという構造です。
"芸術の価値に対する時代の特殊性"は認められないが、"芸術の価値に対する個々人がもつ時代を超えて共通する(ように見える)センス、資質の特殊性、優位性"は認めるという態度は良くわからない。
とにかく、これほど全ページにわたって納得がいかないという思いを抱えながら本を読んだのは初めてなので、驚きであり、特異なクオリアを受け取れました。
ついでに、一番好きな箇所を引用します。P94

飛行機に乗っている時に、隣に座ったモデルのように美しいフランス人の少女が、いきなり私にエヴィアンのスプレーを吹きかけたことがある。「ほら、こうやると、とてもキモチいいのよ」。少女の生と、私の生の潮流とは関係のないところで、一瞬の夕凪が生じ、その時私は何やら天上的なるものの気配を感じたような気がした。

飛行機だけに天上!! ではなく、気配を感じたような気がする、というのは気配を感じる、とはどう違うのか、を考えたりしたい。