古典について
私自身はクオリア信者なので、作品の価値(とは口にしないがもしそれに言及しなければ殺す、と脅されたら)は私が作品から受けるクオリアによって規定されるもの、と想定している。ということはつまりすべての価値は「今 + 私」(何時の、誰)に束縛されているということなのであり、価値について話すことは半分以上が今と私についての説明になる、という立場ですが、しかし世の中にはそれとは違った価値についての言い方があり、私はそれらの言い方全般に対して敵意を抱いているので、攻撃を開始したい。まずは簡単なところで、「10年後には完全に忘れ去られている」について。
「今は広く受け入れられていないが、十年(4世紀)後にもある程度受け入れられている」と、「今は広く受け入れられているが、十年(4世紀)後には忘れ去られている」は対称になっており、前者は時間軸に沿って、後者は時間軸に直行する形で受容が広がっている、前者は「私(ある嗜好を備えた人たち)」にのみ束縛されており、後者は「今(その時)」にのみ束縛されるよう価値の形式を緩めている、と考えても良い(それを許可します)。
とりあえず、前者を古典と呼び、後者を流行り物と呼ぶことにする。古典はその価値の作られ方からして流行り物より素晴らしい == それを好きな私は素晴らしい、というのが彼らの主張です。古典が長い時間を生きているのなら、流行り物はより多くの人間に認められているのであり、流行り物は時間を経過すると鑑賞に堪えないというのなら、(ここでいう)古典は
要約すると、それが古典だから素晴らしい、というのは、それが流行しているから素晴らしい、というのと全く同じで、つまりどちらとも正しいと言うことです。あと、メタ価値という言葉を使いたかった。それと、古典大好きッコは各時代に一握りいる自分と同じ嗜好を持つ人だけが、正しい価値を見抜けると思っているので許せん、と思っているのでそれを書きたかった。
明日は、もしも"他の物全てが色褪せるくらい素晴らしい体験をする機会"があったら私は絶対にそれを避けなければならない(他の物が色褪せてしまうから)、ということについて考えたい。