一ト月間日記書かないと市民権が剥奪される……(2)

実際、不愉快なのは、こういうことです。つまり、他言語の文学はそれほど独特ではないので、その言語を捨てるのも致し方ないが、日本文学は素晴らしいので、日本語は護るべき、ということはですよ、文学の価値評価器として機能するために、なにがしかの利点をあきらめることを、他の人間に強要するということですよ。実際に教育をどうするかというのにはなんの興味もないですが頭にくる話です。許せん……。ここはあの写真を目にしていなければ到底許せないところでした。
あと一点気になるのは、時間的に隔たれて触れることのできない文化と、同時代に存在するが言語の違いによって触れられない文化を、全然別物扱いしていることです。つまり、僕の感覚では、現時点で存在しているが、なんらかの理由で僕が理解できない芸術というのは、過去のある時点には理解できる人が存在したが、今はだれも理解できない芸術、と同じだと感じられるのです。つまり、どちらも全く意味不能だし、僕にとっては価値のないものです。僕にとっての価値だけを考えるのは身勝手、ということなら、範囲を広げても同じことです。つまり、(例えば)日本語が亡びることなく生き残ったので、人類の1%は日本文学に触れることができる状態が保たれたとします。残りの99%の人には理解できません。明日、日本語が亡んだとして、今まで日本文学に訪れた高み(原文ママ)がなかったことになるわけではない。どっちにしろ、時間と場所、言語、その他もろもろの特異な点がぴたりと一致しなければいけないのだから、時間によってそれが明確に区切られることがそんなに重大なのか、と思います。努力して時間軸方向へ文化を延ばそうという努力は、他国へ積極的に文化を輸出しようとする努力と方向違いの同じものである気がする、ということは珍しいものではない、のかもしれませんが……