自分の操作性について(2)

混乱が続いています。昨日の考えでおかしいのは、最初に目的・目標があり、それとは独立して快・不快が存在するという点です。今日の考えはこうだ。まず快・不快が所与の制限として存在している。しかし快・不快に脳髄反射で行動していると長い目でみて上手く行かないことが多いため、長期的なスパンで快の期待値を高め、利今主義を廃するために目標・目的を意識して今の行動に制限をかける。つまり、快・不快が先。そもそも何故、快・不快が存在するかというと、進化の過程においてはそのように環境・条件から行動を導く信号が必要だったから(というかそれが快不快として意識される)というだけなので、実際一生命体としての私にはなんか理由は分からないけど感じられる、という理不尽な物でしかない。理不尽な物は嫌いなので快・不快は排除するがそうすると目的も消え失せてしまうので、さっぱりして良いのだがそれでは困る。私は人生という道に迷ったのでこんな事を考えているわけではなく、面白SFを書くため、日本SF大賞を受賞しサラリーマンをやめ、自尊心を保ったまま引篭もれるようにするため、に考えているのであって、何の目的も快不快もなくさっぱりとした知性のみの存在というのは確かに理想だが小説として面白いかというとまず確実に面白くないので駄目だ。この線では600枚も書けない。せいぜい2枚程度だろう。
では何なら600枚書けるかというと、私小説なら書ける。これは私小説 == 日記、という浅い理解の元に言っている。日記なら二年くらいで600枚は余裕で書ける。そのままではSFにならないので、SFっぽい要素を入れる。私小説といえば猫なので、サイボーグ猫の飼育記を書くのが良いかもしれない。しかしそのプロットはすでに国民的漫画に使われているのであった。まぁでもSFファンも私小説ファンも楽しめる、間口の広い小説として受け入れられるのではないだろうか。いや、それは間違いであり、単にSFも私小説も好き、という極々ニッチなところにしか狙いすらいかない。