手紙を書くことについて(3)

K2Da2006-09-11

ラジオへの投稿はしている、続けたいと思っているが、アイドルに手紙を書いたことはない。アイドルに手紙を書くのは割と一般的な行為であることについ最近気付かされたが、とくに伝えたいことがないので書いていない。これは私の本心ではなく、本当は切々と日常を綴った手紙を書きたいのだが、手紙を書きだすとなにか取り返しが付かない種類の良くない変化が起こるのではないか、と疑って、気付かないうちに心に鉄のバーロックをかけているのかもしれない。もし、日常的に手紙を出していたとしてもそのことは日記に書かないだろう。内容はとても叙情的で、真顔で人に見せられる代物ではないからだ。ほとんど詩、ほぼポエム、と形容して問題ない。手紙を出していても出していなくても、手紙は出していない、と日記に書くのだから、手紙を出していない、という記述に字面通りの意味はなく、もっとそう、行為遂行的に解釈されるべきではないだろうか……。たとえば、私はアイドルに送った手紙の数であなたと勝負するつもりはありません、というような……。
では、何で勝負しているかというと、主にラジオで採用されたハガキの数で勝負をしている。まだ一枚も採用されていないので、この勝負では生涯全敗している。私が知る限りで最強の人物は、7通送信して5通採用されている。他にも、一度や二度採用されたというような人物は枚挙にいとまがない。一度も採用されていない人の方が珍しいかも。 "また採用された"、という報告を(主にmixiで)見るたびにとても辛い気持ちになる。いったい、僕と彼の間にどんな違いがあるっていうんだ? ここは冷静に、"僕のハガキ"と"彼のハガキ"にどんな違いがあるのか、を考えなければならない局面ですが、認知の歪みは恐ろしい。全人格を否定されたような気分になる。この衝撃は、知り合いの名前がラジオでコールされた瞬間に最高となるだろうから、どうしても僕が僕であるとはっきりわかるようなペンネーム(ハッピーネーム)でハガキを採用されなければならない。これからは本名OK! 津田○○で投稿したい、というように、ラジオへの投稿は功名心のみでしている。だから採用されないのかもしれない。若干スピリチュアルに過ぎる解釈になってしまうが……。しかし、ラジオへ投稿しているのは功名心だけではなく、もっと実利的で、深刻な理由からである人もいる。つまり、他のありとあらゆるアイドルとの交信手段はその情報量か、確実性のどちらかに問題を抱えていて使い物にならないので、ラジオへの投稿が最も信頼できるのだ、とする立場です。