右の頬を罵倒されたら、左の頬を差し出す(N)

「ウンコな議論」というひどいタイトルの本(ISBN:4480842705)の引用です。P75

では、最終的にどう生きるべきかを決めるのは何か? それは……何かを大事に思うという気持ちだ、とフランクファートは論じる。それを愛と呼んでもいいだろう。愛、というと日本語ではロマンチックな連想が強いが、ここで言われているのはそういうものではなく、昔キリスト教の宣教師が「お大切」と訳したような、何かを気にかける感情全般だ。

これはピュアのことであり、かつ夏焼さんや永井さんの言う内発的で自然的な欲求のことだろう、と思います。思いますがここで夏焼さんの名前をだす必要は全くなく、それくらいBerryzについて書きたかった、ということです。それを愛と呼んでもいいだろう。
で、今大体どの辺に問題があるかというと、「お大切」にも低コストな物と高コストな物があり、まず確実に高コスト、高リスクな物(結婚など)を避けて、経験的に、もしくは他人の行動を観察して、低コストな「お大切」を選んだとして、それを意図して選択したこと自体が「お大切」に影響するのかどうか、ということです。お大切の別名がピュアであることから分かるとおり、お大切の発生過程に意図が絡んでいないことが重要である、という感覚は確かにあるからです。
自覚的なメタ欲望の結果に生まれた欲望は発生過程がピュアでないのでピュアな欲望ではないので、良くない、ということになると、メタ欲望について自覚しないのが一番良いのだろう、ということになるわけですが、難しいことに、なにについても自覚の無さこそが一番かっこわるい、青い、というような病気にも同時に囚われているので残念なことに上手い解決策はない、のですが、実際の所、自覚的なメタ欲望の結果であれ、特に楽しさには影響しない、というか正確に比較できる対象がないのではっきりとは言えないものの、割と安定してお大切を生み出させるようなシステムや行動様式はやはりあるんだな、というのが今の気分です。それがそういう物だと分かっていても、ということです。