10/27(木)

キャワッの反動性について。反動的なキャワッにあまり興味がなかったのは、"反動的"の意味を誤解していたのが原因だった。誤解というか、僕が知っている反動的とは時代の流れ、趨勢に反するというような意味だったのだけども、反動的なキャワッに関してはもっと違う意味があるようだ。つまりこうです。長い引用ですいません。永井均、「哲学教科書シリーズ 倫理とは何か 猫のアインンジヒトの挑戦」(ISBN:4782802099)。P197

千絵さん
(前略)たとえばさ、ある男の人が、買春だけでなくて、強盗も殺人もちっとも悪くなくて、悪いのは一人暮らしとか外食とかスポーツとか、そういったことなんだ、という意見を持っていて、しかも一人暮らしで毎日外食でスポーツばかりやっている、なんていうのはどう思う?
アインジヒト
感動的な話だな。いいやつだとは思うけど、一人暮らしで毎日外食でスポーツばかりというところが気に入らない。そこがちょっと反動的な臭いがする。
千絵さん
反動的って?
アインジヒト
内発的でなく、何かに対する反発からことが始まっているということさ。一人暮らしをしていて、スポーツでも平気でするというなら、もっともっと心あたたまる話になるな。

キャワッが反動的な臭いをしているのは、つまり、ネット上でするキャワッ発言があまりにもピュアで、公共性が無さ過ぎる、日常生活でついふと漏らしてしまう、キャワッくらいが、もっともっと心あたたまる、ということです。ここでアインジヒトが心あたたまる、というよく分からないけどプラスの表現をしているのは、それについて善いとか悪いとか言えないからです。(だと思います。この本が、他の永井さんの本と比較しても、良い、と思うのは、登場するキャラクターが猫、男、女、という、それぞれに違う特徴を明確に持っている(もちろん、人間の2人は女性男性である前に人間ですが)ということです。転校生とブラックジャックは最後までどの学生がどういう意見を持っているのか覚えられなかった。)
ある種のキャワッから反動的な臭いがするとして、それは何に対する反動か。大の大人がアイドルをかわいいかわいい言っているのはいかがなものか? という常識に対する反動では、もちろん、ありません。今、キャワッが反動的で有り得ると言っているのは私なので、私がそれを説明しますが、キャワッは批評とそれから生み出される価値に対して反動的です。たとえば、中島早貴さんの可愛さはそれ以上分解も分析も出来ない、ただの可愛さなので、キャワッにはそれ以外のどんな価値も入り込む好きがなく、ただ可愛い→キャワッ、という図式が成り立つわけです。
勿論、このような態度はどのような、批評とか権威によって価値が与えられている作品に対してでも取り得る態度、ではあります。メタメタなミステリを単に面白い小説、ゲラゲラ、と読むことも可能だし、一般的に難解とされるようなものに対して単に、内発的に面白いもの、として接する、接することは可能である、というか可能であるのではなくて単にそうある、ということは有り得る、のですが、それはどこまでいっても、自分にとってそれが本当に内発的であるかどうかを判断する術がない。それに対して、℃-uteのキュートさは自明なのであって、それが内発的なものであることは疑いようがない、からこそ、より鋭利な反動性の現れである、ということが疑い得る……。
これが面白いのは、ハロプロ好きに対しては全く逆の疑義も存在したと言うことです。そこで言われていたのは、ハロプロ好きが、内発的に感じられた可愛さを、嘘の批評的な言語? を利用して捏造した価値で塗り固めている、というような趣旨のことだったと私は思いますが、これは反動的キャワッの疑いを完全に裏返した主張です。では、これらのことは、ハロプロと切り離せない固有の問題なのかというと全然そんなことはなく、何に対してでも言おうと思えば言えるのではないか、と思います。たとえば、いま、はてなで、ある、盗作の疑いをかけられているような歌手ばかりを、好きである、と公言すれば、それは行きすぎたクリエイター幻想に対する反動から生じた反動的ファンである、クリエイティビティにたいする反動性の現れである、と疑われるだろうし、白いバンドを何十個も腕や足首に巻いていれば反動的ホワイトバンドと言われるのではないか、というようなことを考えると疑いに関して自覚があるだけ良いのではないか、いや、しかし私は自覚があるということしたいだけなのではないか……。