10/26(水)

倫理に関する本を読んだので、道徳について書きます。交渉や対人スキル的な意味での道徳的な態度と、意見その他色々、についてはまた考えることにして、今、私が問題だと思っているのは、自分の中にあるように思われる道徳についてなので、そのことについて書きます。問題だと言っても特に道徳的な問題で悩んでいるわけではなく、全く必要はありません。気になるので考える、ということです。本に出てきた用語を適当に散りばめていますが、正確な意味を理解できているという確信はありません。
道徳は直観的で生得的なものではないか、というのが私の出発点です。カロリーが高いものを美味しいと感じる、のと同じように、集団で生活する際に便利な態度、考え方、そのような考え方を本当に身につけていると思わせるような振る舞い方、が、道徳的な快感にそのまま、繋がっている、のではないか。なぜ、こんなことを書く必要があるかというと、道徳が成立する以前に黙約が必要である、とか、そういう話を読んでいて疲れたので、そこは考えなくて良いようにしたいからです。そもそも、道徳をそれ以外の快と切り離して考えるのが、問題を複雑にしている原因ではないかと思います。単純に、人間が快を求める、それに対する制約、もしくは自由として道徳がある、という考え方が変なのではないか。つまり、人間、というか動物がそれぞれに違う行動をとるようにするためにはどういう行動原理を持てばいいか、というとですよ、それぞれ全く別の基準を持つのではなく、それぞれの内部に異なった基準の評価基準が埋め込まれており、それらの葛藤の結果が行動に繋がる、というシステムの方が、それぞれの人間には共通の部分が多く、しかし行動は異なる、ということになるわけですよ。で、単純な快と道徳はそれぞれ衝突しがちである、というか衝突しがちである部分を道徳と名付けた。単純な快は美味しいものを食べるとか、眠いので寝るとか、後は生殖に関するようなこと、単純に他者に対する力を持つこと、などで、それに対立するように道徳的な快楽がある。もちろん、道徳的な快楽も生存に結びつく、のでそのような特徴が生き残っているわけで、集団で生活する上で正直である(と他人に思われる)のは有利なことだ、とかそういう理由で、残っている。とすると、道徳には従わなければ行けないのか、というのは、自分にとって気持ちの良いことはするべきなのかどうか、という問題に置き換えて考えられるのではないか。ここでいっている気持ちの良いこと、というのはただただ気持ちの良いことであり、その他の意味はないので、これはするべきではない、というか合理的ですらないです。その上で、道徳的な快と、それ以外の快が対立するのであれば、それらを調節して最大の快になるように調節すればいい。ということになり、しかもそれは人によって違う。道徳の快はなぜ制約として感じられるのか、はよく分かりませんが、集団生活するようになってから生まれたものだろうか、とか、どうでしょうか。ものすごい適当です。
で、高カロリーな食事が実際には健康や長生きに繋がらなくなってしまった、のと同じように、道徳的な直観が道徳と関係ありそうな、実際の事態とストレートに繋がらない、ということは有り得るし、相互にも矛盾する。もともと、そのような傾向を持つ人が生き残りやすかった、というだけなので特に整合性はないので。で、道徳の直観は割と複雑なルールで埋め込まれているので、実際の事態の解釈の仕方によってがらりと変わってしまうので、ものの見方、結び付け方を変えることで道徳的な、べき論の議論は成立する。というか、どう、そういう、道徳的な快と現実の自体を結びつけるか、というのは、大いに解釈に左右されるので、解釈を押しつけ合うことで色々な問題、とされるようなものが成立するのではないか。以上。対人関係の捉え方に左右されるし、そもそもが他人の考えをも要素に入れて成立する感覚である、ということ。まぁ、他人の感じ方が大きく影響するというのは美にも言えることですけど、他の快に対立しがちな快である、たまたま、それが長期的<今の私 - 今ではない私>な、もしくは、<私>と他人の間の関係に一致している(つまり、それが対立するにもかかわらず生存に役立ってきたのは、そのような意味があるから、なのでそうでなければ単に有害無益な快になる)ので、それが道徳といわれるのではないか。つまり、快の組み合わせ取捨選択、の問題に過ぎないのではないか。
最後の方はメモしていたのですが整理して書き直すのが面倒になったのでそのままです。