右の頬を罵倒されたら、左の頬を差し出す(W)

皆さんはいろいろなところにお住まいなのでしょうけど、私が住んでいる地方は今日とても風が強く寒かったです。道に落としたM&M'sが風に煽られて際限なく転がっていくほどでした(最終的には海へ落ちました)。
さて、昨日までの考えが正しく、罵倒されたらされっぱなしが一番正しく有効な反撃はない、というのがもし事実だとすると、ネット界は先の先がとにかく有利で一度隙を見せたら二度と挽回できない、と言うことになってしまいます。もう呑気にアンテナを公開している場合ではない、公開するとしてもウォッチアンテナとして運用するしかないわけで、それはおかしい。現実ともあっていない。何がおかしいのか。

批判と罵倒を区別しないことについて

とにかく批判という言葉を使うのは気恥ずかしいので使いたくない、恐れ多い、という理由で私は普段批判という言葉を使わずにDISといったりしていますが、時々見かけるのが、罵倒には正当性? 理由? 根拠?がないけど批判にはちゃんとあるので良い、批判は良いけど罵倒は駄目、とか、はあんま良く理解できない。私が罵倒を嫌だと思うのは、罵倒された人が嫌だと感じるからで、批判だってそうだ。正当な理由があろうと無かろうと批判された人が嫌だと感じるであろうと知っていてそれをしているのであれば、そこから推測される批判者の意図は罵倒とそれほど変わらない(と想像し得る)ので(その点に限って言えば)特に区別する必要を感じない。たまたまそこに利用できるような欠点があったからそこを批判しているだけだろう、と邪推できる、という意味で。
勿論、特定個人を批判することが正当だと感じられる場合はあります。その人と直接関係があるなら批判を通じて自分の環境を改善できるだろうし、その人の行為が自分と直接関係なくても個人として社会? に対して迷惑だったり害があったりして、かつ、その行為が批判によって改善される、害が減りそう場合は本当に内容も意図も正しく善なる批判がありえるかな、とは思う。
けど、それ以外の場合は、特定個人の行為に対する批判ではなく、不特定多数がする行為一般に対する批判としてそれをすればいいのだから、そうではなく敢えて特定個人の行為を批判すると言うことは何かと引き替えに批判に罵倒要素を加えたのだ、と私は思いますが、"不特定多数がする行為一般に対する批判としてそれをすればいい"の"いい"もよく分からないというか別に良くもない、と言うことになり得るのでここは考え中です。

"罵倒しているから罵倒されても当然"は"目には目を"とは全く違う発想ではないか? について

そもそも"罵倒しているから罵倒されても当然"は"目には目を"とは全く違う発想ではないか? という疑問を今日考えついたので。"罵倒しているから罵倒されても当然"は私が考えたわけではないので答えは出ないんですけど。罵倒について考えているとあっという間に時間が過ぎる。
説明します。最近は道徳の崩壊が激しいので、他人が何かひどいことをしているように見えても、それは私の道徳から見ればひどいことであるだけで、彼にとっては当然のことであるのかも知れない。色々な道徳に共通するルールは"自分を特別扱いしない"と言うことだそうです。だから、もしある人が見知らぬ人を罵倒/批判していたとしたら、彼は「見知らぬ他人を批判/罵倒してもよい、されてもよい」という枠組みで生きていることになる。従って、私も(批判できるような点があれば)彼を批判/罵倒しても良い、とこういうことです。逆に、彼が如何にひどい(ようにみえる)ことをしていても、彼が他人を批判しないのなら、私は彼を批判できない。
そういう、道徳を極端に相対的に考える立場からも"罵倒しているから罵倒されても当然"は言える、のかなぁ、ということを今日思った。この場合は、"彼が他人を罵倒している"から、"彼の道徳を尊重したとしても彼を罵倒できる"というだけで、罵倒した方が良い、されて当然、にはならないわけですけど。
でもこの考え方は広く受け入れられるかどうかについては非常に心許ない。一般には、個人がどう考えていようと道徳的に悪い行為は悪い行為であるわけで、私は他人に殴られても気にしないから他人を殴っても良い、は成立しない。残念なことですけど。逆に、"他人が喜ぶことはしたいけど自分が喜ぶことは絶対にされたくない"という人がいて、彼は自分を特別扱いしているから非道徳な人間といえるか、というような問題。私は彼は達人道徳の実践者だと思います。google:"達人道徳"。達人道徳は実在する言葉らしいのですが、意味がよく分からないのと、googleで検索しても全然引っかからず、非常に面白いのでどんどん使っていきたい。多分、凡人には実践し難い高度な道徳のことだと思う。