ベルウィックサーガについて

いま、ベルウィックサーガというゲームをやっていて、15面中の5面が終わったところで20時間使っています。しかし、実際には20%の攻撃を二回連続当てて、その後の攻撃を全て避けられるまで延々とロードを繰り返したり、3面がどうしてもクリアできなくて一からやり直したりしたので40時間は優に使っていると思います。
僕はそれほどゲームをやっている方ではない(ものすごくゲームをやっている人に比べたら)と思いますが、今までやった同系統のゲーム(いわゆるシミュレーションRPG)の中では群を抜いて難しいです。同じジャンルのゲームとは思えない。初見、ロードなしでクリアできる人がいたら本気で尊敬します。
金の無駄遣い、武器の使いすぎ、経験値の配分間違い等によって、露骨なミスなしでも完全に詰む(クリア不能になる)ことがあるようで、恐ろしいです。プレイしていてあんまりにも腹が立つので部屋中の壁がボコボコになってしまいました。
しかし、それでも(面白い)ゲームとして成り立っているのは、5ターンごとにセーブが可能だからです。最近は5ターンごとのセーブを目標にして、いかに状況を改善するか、次の5ターンをいかに良い状態で迎えるか、を考えるゲームになってきました。
そうしてゲームをやっていても気になるのは可能世界についてです。あまりにもセーブとロードを繰り返していると、だんだんゲームの中から現実感が消えてくる。実は、最初から現実ではないのですが、そこは僕一流のゲーム脳でなんとかリアルな体験としてゲームをプレイしているわけです。「その両手剣で血路を斬り拓けアーサー!(絶叫)」的な。しかし、最初からロードを前提にプレイしていると、いまテレビのブラウン管の中で起こっている出来事は可能な世界の一パターンでしかない、という実感が強くなってきます。可能世界が実際に起こった出来事として確定されるのは、セーブされてから、です。セーブされてはじめてゲーム内の世界が観測される。
これは我ながら良いアナロジー("アナロジー"の使い方は正しいでしょうか?)だと思ったので、もう少し考えます。この場合、過去に起こった出来事として残っているのは(ゲーム内の世界では)セーブデータだけなので、AがBを、CがDを倒したのか、それとも、AがDを、CがBを倒したのか、は結果としての数字が全く同じだったら区別が出来ないし、そもそも区別する必要がないのではないか、重なり合った状態なのではないか、とか、ゲーム内の世界がもし5分前にPARで改造されたセーブデータだとしてもリース(主人公)は気づけないのではないかその他色々etcetc..

乱数について

ベルウィックサーガはリセット(セーブデータのロード)をした時に乱数がふり直される(プレイヤーが同じセーブデータから同じ行動を選択しても、毎回結果が異なる)ので、非決定論的な世界といえます。そして、敵のコンピュータが操作するキャラクターは上手い行動を選択したり、嫌らしい意図を持った攻撃をしたりしてくるように思える(常に、です。一撃で殺されたりする)。が、それは乱数がふり直されることとは関係なく、毎回こちらの行動に反応して全く同じ行動を敵キャラクターがとっても、意志を持って行動しているように見えるので、決定論的か、非決定論的かは意志の問題とは関係ない? とか、そういうことなのかなぁ、と思いますが、あまり釈然としません。自分は明らかにものを考えている、他人はものを考えているかどうかわからないけど、自分と比較的似た行動をとるから、ものを考えているに違いない、というのと同じだと思います。つまり、当たり前のことかな、と思いますが、当たり前だと良くないのか、どうか、と言う……。

ゲームの正史につて

ゲームソフト全体が可能世界のルールと所与の状態だとすると、世の中でプレイされた、あらゆるプレイの記録が、実現した可能世界のバリエーション、途中までプレイされたものの記録されずに消えたデータや、可能だけどされなかったプレイが可能世界全体、と言うことになります。普段は特にそのあまたのバリエーションは問題にならないけれども、たとえば続編を作ろうという時にはどれか一つが正史にならなければならない。とか、その他色々。僕は今キャラクターが一人も死なないようにプレイしていて、一人も死なないというのは、"死ぬ"というイベントが起きないという意味でなく、キャラクタが死んだ状態でセーブしない、という意味です。また、「発生させたくないイベントだけど、イベントをコンプリートするために一応見ておく」などの行動を割と自然に受け入れられる(死んだことも、生き残ったことも同じくらいの強さで実際に発生しているのに、どちらかを現実のものとして考えられる)、ということ、は、たとえば昔の人や、ゲームをやらない人、には理解しがたい感覚なのか、そうでないのか。ヨン様によって精神の危機を救われた人たちヨン様と自分によって織り上げられた物語を想像したりするのかどうかについて(多分する)。だから、もともと事態を把握する時にそのように、話全体がフィクションであっても、その中に"実際に起きたこと""そうでないこと”を区別できるような、把握の仕方、をしがちであると言うことなのか。なぁ、それで平行世界も美しいように感じられるのかな、と思います。トゥルーエンドってなんやねん!! 的な。正史が複数ある状態になりがちなノベルゲームにはまっている人が訳のわからない、頭のおかしい感じの面白いことを言うのは、そういうのに意識的になりすぎるのが原因ではないか。
小説を読んでいる時/読んだあとに、作者の意図がどうとかくだらないことに気が行ってしまう、のも、正史がどれであるか、描かれていない部分がどうなっているかを考えるために必要になるから?

ガンパレについて

そういうのに意識的?ゲームは沢山ある、と思う。アルファシステムの「高機動幻想ガンパレードマーチ」は特におかしな感じが強かった。

意志について

ゲームの主人公は、ゲーム内の因果関係から解放された自由な意志を持っている、というのは、主人公はプレイヤーの手によって動かされている、か、最低でも生死に関わるような重要な選択をゲーム内のシステムとは別の所から供給されて行動している、わけであるから、ゲーム内システムに全ての行動原因を依存するノンプレイヤーキャラクターと違って真に自由な意志を持っている。といえる。道徳的に意味のある自由意志を探すために変なもの、外の世界や特別な力を夢想しがちな人は、ゲームの主人公的特別さに憧れるゲーム脳なのではないか?

イーガンさんについて

『宇宙消失』の可能世界大量殺戮、『順列都市』の可能世界での不老不死、『ひとりっ子』での可能/平行世界で死んだ自分に対する感情など、イーガンさんは平行世界/計算可能世界に感受性が拡張extendされた人なのかなぁ、と思います。