寝ていないときに考えていることについて(2)

寝る前に限った話でもなく、一度その場、状況で何を思っていたか、に意識が向くと、再度同じ場所、状態に遭遇したときに、前に考えていたことが思い出されてその続きを考える、ということがあります。僕は散歩が趣味なので、道を歩き回るのですが、あー、この前この道を歩いたときパチンコと音楽について考えてたなぁ、と思い、そうすると道と考えの連鎖に気をとられてパチンコと音楽について考えられなくなるので、一時期はどこを通っても最終的には道と考えの連鎖について考えるというような状態になり困り果てました。そういう仕組みがあるので、この、道と考えに連鎖があるという考えは不当に強化されている可能性が高く、実際にはそういうことはあまりないのかもしれません。つまり、人は、道と考えに連鎖があることに気付かない(連鎖がない)か、気付いていれば果てしなくそのことを強く意識してしまうかどちらかだと思います。
道を歩いている他の人はいったい何を考えているのかというのも大変気になります。内容と言うより、変化が知りたいです。僕はいつまでも同じことについて考えている、考えているというか、同じようなフレーズがぐるぐる頭を回っているだけだったりする上に、それを日をおいて繰り返したりしますが、他の方はいったいどうだろうか、とか、その他いろいろ。毎日たくさんの日記を読んでもその辺、人が何を考えて生きているかについてはあまり理解が深まらないようです。日記は一日分を平均して一分あれば余裕で読めますが、ぼんやり考え事をしている時間はそれの何億倍、億は言い過ぎました、何百倍かはあると思いますが、そのほとんどは日記に綴られないまま消え去り、忘れた頃にもう一度同じ考えにいたったりするのだなぁ、恐ろしいことだ、と思います。これでは何も考えていないのと同じじゃないか。"日記化されない思考 == 虚無"的なとらえ方です。
日記と散歩について書くと、散歩中に考える日記は壮大なものになる傾向が強いように思います。目の前にPCがないので、実際にはそんな日記は書けない、ということを気にしなくて良いし、散歩中は気分がのびのびするからです。先日夢想した日記は以下のようなものです。僕は当時ハロプロ日記が書けない、他の方のようにハロプロつんくさん(以下、淳君:必見の参考 → 早安とは)に対する気持ちや、考察を上手く日記に書けないなぁ、本当は、舞城さんのような書き方(圧倒的文圧!)で、ハロモニのロケバス内で起こった(想像上の)出来事について綴りたい、というところから考え始め、いろいろ断片的な日記を頭に思い浮かべ、ここで方言を使ったらあからさますぎるから標準語にしておこう、うーん、舞城っぽさが足りない、ここで部屋を回転させてみたらどうか? それを上から見ると実は道重家の家紋になっているというのは? ということを考えているととてもうきうきしてきます。ところが、ひとしきり圧倒的文圧について考え終わると実際にはそのような日記はどうしても書けないだろう、ということが思い出され、でもここまで舞城さんぽい日記というものについて考えてしまったのだから、なんとか少しは日記に出来ないだろうか。どうしたら、立派なブログコンテンツたり得るだろうかという方向に考えが行き、以下のような方針を立てます。まず、舞城さんを目指して最終的に挫折する(模倣にも見えないような)日記を書く(この時点で最初から挫折するつもりで何かにチャレンジするという困難が待ち受けていますが実際に書くわけではないので気になりません)。そして、次のエントリで、自分の意図を説明する。その意図とは、日記に書くことがないといっても、とりあえず自分の体験か何かをただ書くことは出来るのだから、それを好きな何かの書き方に似せるという方向では無限に努力が可能なはずである、SF好きなら黒丸文体を目指す方向に、憧れの新鋭女子大助教授のように、好きな新聞の社説みたいに、有名はてなダイアラーを真似して、いくらでも情熱を注げるはずで、僕はそれを体現するためにあえて下手な模写を行った。これは釈明ではなく、宣言だ。
というようなことを散歩中は考えています。