日記について

ここ最近(ふつかくらい)「日記<->ブログ」、或いは「日記<->テキスト系」文脈における反日記思想を発展的に深めつつありこのままでは思い余って独力で反日記闘争を開始しかねません。日記的日記が支配的な勢力を誇るここはてなダイアリーにおいてそのような闘争は確かに革命的な意義を持ち得るでしょう。最終的には日記的日記の持つ構造的な欺瞞を広く明らかにし、その上ではてな市民が自ら望んで日記的日記を選択するのならば仕方が無いというスタンスです。まずは日記主義への投降を象徴するはてなダイアリーという名前を排除したい。僕が如何にcssを弄り有料オプションを契約してもここのtitleは「はてなダイアリー - 視基」でしかなく決して「はてなブログ - 視基」や「はてな系 - 視基」にはなれないからです。
詰らない冗談を書きました、すいません……。僕は日記について考えるのが好きで、それは他の方が書いている日記が何故そのように書かれているのかという事であったり、僕自身が日記を書く際に感じるこの日記は良いが、これは良くない、何故かは分からない……、という自主規制についてであったりします。この自主規制は自主規制という形をとっていながら実際には強制力を持っていて、逆らう事の出来ない観念の一種です。実践的には兎も角として観念的には僕は一端の操作性中毒テクノアディクションであると自負していますが、僕はこれらの観念によって強制されている事を表現する際に「〜〜べきである」と表現しています。これらがそのように表現されているのはこれらの観念が操作不可能だからではなく、単に操作するのが困難であるが故です。時にその根拠が明らかでなくても僕はその観念を修正する事よりも観念と折り合う事を選択します。つまり観念に観念する……みたいな……。
まぁそういうわけで何が言いたいかというと、僕が「〜〜するべきではないか?」というのはつまりそのような観念を所与の条件としてしまった僕が最適な行動として選択するのがベストであると思われるのはこれではないか、程度の意味であり、別にこういう日記を書いている奴は変態、とかそういう事を思っているわけではなく、また僕は絶対このような日記を書かないなぁと思っていてもそれを他の方が書いているのを見てどうこう思うということではありません……。まぁ当たり前の事ですが……。
例えて言うと、僕はオリンピックの選手が何故あそこまで頑張るのか、と言う事について想像も出来ないしそうなりたくもないですが、とても偉いなぁ、と思っていて、大体そういう感じです。オリンピックは普通に応援しています……。