饒舌体?とかいうそうです

町田康さんの「権現の踊り子」を間違って読みまして、これはとても面白かったです。句点の少ない特徴的な文体で、読んでてとても気持ちがよく、今読むことを決めているものを全部読み終わったら町田さんの他の作品も読んでみようと思います。
僕は読みながらこの文体はテキスト系といわれている人たちのうちの一部の方のものに似ているなぁ、と思ったのですが、これは僕が小説を読まずに日記ばかり読んでいたことから来る偏りの現れで、どちらかというとテキスト系の人が真似したんだ、と指摘されました。まぁでも今日会った他の知り合いに拠るとそのような文体を使用する人は昔からいたそうですし、真似がどうこうという話でもないのですけれども。
僕は日記を読むのも書くのも好きなのですが、読む方の趣味はどうも内容ではなく語り口(文体でも良いや)で選んでいる所が大きいようです。日記と一括りにいっても内容は様々あり、日常についてのみ語っているわけではなく、また同じ事を書くんだって色々な書き方がありますから、そこからそのような書き方になったのにはなにかしらの原因があると思うんです。つまり競馬についての日記を書いている人はなにげに実況中継風だったり、或は高橋源一郎風だったり、とか、そういうあらわれが有ると思うわけです。もしも、インターネットが無くそれぞれの人がそれぞれに日記をただ書いているのみならばそれはずっとプロの手による文章、新聞だったり小説だったりコラムだったり、日記文学なんてものもありますから正にそれであるとか、そのようなもの、を手本として書いていくしか無いわけですが、実際には公開できるからこそそういう日記を書いているわけでそこには自ずと相互浸透の作用が働くと思われます。僕は交換日記なぞついぞした事がありませんでしたからインターネットを見るようになって初めてプロの手によらない文章を大量に目にする機会を得たわけですが、日記を書くようになってからも他人が開発した書きやすい日記をまねばかりしているという感じで、一つあれから離れた第二世代ではないかと思います。つまりあれから、というのはそういう新聞から、という事ですが。これがどんどん進んでいくとどんどん離れていくのではないかと思うわけですが饒舌体はそういう作用の産物ではなかったという事で頗る残念です。
ああ、ネットを使って文章を書く機会が増えたといえば普通はメールの事を指すんでしょうが、あれは目に触れる絶対数が少ないので小さい集団で極端な進化を遂げる事はあっても、あまり面白いものにはならないのではないかと思っています。掲示板の書き込みは実によく空気に規制されていてあまり変わっていかないように思います。