本を読んでも読めてないことについて(3)

はてなブックマークによって無理矢理な社会化 == 外の世界-"ブロゴスフィア"-への直結、をされたと思ったら、いつの間にかブログは終わっており、いまやもうそこは罵倒芸と呼ばれる太古の兵器が唸りを上げる争乱の世紀であった、というのが一般的なはてなダイアラーの歴史/現状認識です≪誤った汎化≫罵倒芸というのは、一見芸のない悪罵を、それ自体が高度な芸==ハード芸であるという標識を自らの手で貼り付けることによって芸化し、マジレスに対する暗黙のエクスキューズにするという手法です≪ハード芸==駄洒落==標識≫
そんな戦乱の中、TB非表示、コメント欄非公開といったシステム的な対処ではもう対応しきれない、なぜならWEBの一層上を隈無く覆うはてなブックマークがWEB上から安地を奪ってしまったからです。今やどこに日記を書いても直接にコメントされうる。
今、考えるべきはいかに言質を取られないか、いかに真意を読み取りにくく、修辞で身を守りながらメタ・メッセージを伝えていくかという手法であり、その一つがアイロニー、もう一つが罵倒芸です。文面をそのまま取ると賛辞なのに実は悪罵というアイロニーは、文面だけ読むと支離滅裂な悪罵だが、そこからオモシロを読み取れば芸として成立するはずという、罵倒芸の逆を行く発想です。個人的な嗜好を言わせてもらえば、圧倒的にアイロニーの方が好きアイロニー選好≫ですが、アイロニーは自分でアイロニーだと言ってしまうと成立しない、罵倒芸は自分で罵倒芸だと言い張ってもギリギリ成立する気がするので、好きな方を選択すればいいと思います。
そんなん、他人をけなさんでも成立するオモシロを追求すればええ話やろ? と思うかも知れませんが、実はオモシロ==ユーモアと攻撃は切っても切り離せない関係にあるので、どうせ攻撃しなければいけないならどこを攻撃するかは十分に考える価値のある問題です。
ティーヴン・ピンカーもこう書いている。『心の仕組み(下)』(ISBN:4140019727)P185(実際はケストラーさんが考えたことですが)

ユーモアは、ある準拠枠の思考の流れが異常(すなわち、それまでの文脈では意味をなさない出来事や言明)にぶつかったときにはじまる、とケストラーは言った。その異常は、その出来事が意味をなすべつの準拠枠に移動することによって解決される。そしてその枠内で、だれかの品格が傷つけられる。

これが事実だったとしても、誰も傷つけないユーモアというのは考えられる。たとえば、自分の品格を傷つける==自傷/自虐的なギャグ==自ギャグ、や、架空の存在の品格を傷つけるユーモアなど。それでは。

メタメタ

久しぶりにメタルでも聴くかと思い、SYSTEM OF A DOWNの「Mezmerize」(ASIN:B0006TPI66)をかったんですがすごいですね! こんなんなってたのかと思いました。2曲目とか4曲目を聴かせたらどんな元気のない人でもたちどころに元気になると思います。これ聴きながら散歩してるとにやにやが止まらないですが、どっちかというと2曲目の方が元気のない人向きかも知れません。4曲目"Cigaro"は短すぎて(2:11)、元気になる前に曲が終わってしまうからです。

肩幅について

肩幅で立て、といわれた時に、肩たたきでたたくあたりの肩幅、首の付けの幅を想像していて、みんな肩幅広く考えすぎ、とずっと思っていたんですが、あれは腕の端から端、を指すもっと広い間隔なんだ、ということが今日わかりました。わかったと言っても誰かに確かめたわけではないですが、多分そうではないかという気がします。

モードについて

ブログモードを"台無し"にしてやった。